このページでは、命が尽きるまで自らの病気と闘いながら私たち難病患者のために活動してくれた、元・難病連旭川支部長 恩田武美を紹介します。
マジックはプロ級、ギター、カラオケ(演歌)、将棋、読書、と多趣味多芸。
パソコンは先駆け的ユーザーでもあり多くの障害者、団体に影響を与え、「かがやき工房」の礎をつくった。また、重度難病患者用の意思伝達装置の普及にも力を尽くした。
1999年7月から11月にかけての「がんばれ難病患者・日本一周激励マラソン」では、インターネットを活用してサポート。「おんたけ」のハンドルネームが日本中にかけめぐった。
「がんばれ難病患者・日本一周激励マラソン」でホームページを制作・管理の責任者である恩田武美が4月11日午前7時他界いたしました。以下、「お別れの会」の式次第を掲載いたします。尚、北海道難病連 専務理事・事務局長 伊藤たておの弔辞はページ下部に掲載しています。
お別れの会 式次第
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お別れの会 式次第
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2000年11月19日における日肝協代表者会議全国交流のつどい閉会の挨拶より(画像をクリックをすると、別画面でより大きな画像を表示します)
2001年4月8日付朝日新聞
2001年4月11日付北海道新聞
2001年4月16日付北海道新聞
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恩田武美さん、あなたのあまりにも早い旅立ちに私たちはとても大きな衝撃を受けそして言葉もありません。肝炎の患者会はもちろんのこと、地元旭川の患者団体や障害者団体においても、そして、北海道難病連にとって、最も優れたリーダーの1人を失うことになってしまいました。
20世紀から21世紀にかけ橋として2000年は様々な話題や課題を社会に提供しました。しかし、あなたにとっての2000年はまさに21世紀への生命のかけ橋となった年でした。
B型肝炎の国民への蔓延は、注射の筒と針を替えないで行った集団予防接種にあるとして、国を相手に闘った肝炎訴訟は、札幌地方裁判所の判決では国の責任を認めさせることができませんでした。北海道の肝炎の会では言いようのない口惜しさと疲労感にうちのめされ、次の闘いへの展望を失いかけていました。
その時、あなたと私たちは、今ここでくじけてはならない、肝臓病学会もようやく「不適切な医療」に大きな原因の1つがあることを認めたではないか、世論を盛りあげるには自分たち肝炎の患者たちが立ち上がるしかない、一審で敗けたのは二審に向けて、なお私たちの運動をもりあげる時間と機会を与えてくれたことだと思おうと確認し、誓ったのでした。
しかし、一向に肝炎患者自身が全国的には立ち上がれないでいた中、共にB型肝炎患者として、運動をすすめ、病院でも同じ病室となり、入院していながらも夜を徹して語りあっていた盟友とも言うべき北海道肝炎友の会事務局長の村中剛樹さんがついに帰らぬ人となりました。
あなたは、既に北海道肝炎友の会の会長代行をつとめ、日本肝臓病患者団体協議会の代表幹事となり、地元旭川では北海道難病連の旭川支部長と難病連の福祉機器事業部門の旭川営業所長などをつとめる多忙の身であり、かつ既にB型肝炎から肝ガンに移行し、度々入院治療をしていた身でありながら、あえて、その事務局長の代行をも引き受けたのでした。
自重を求める私共に対して、あなたは言いました。「今しかないのだ、来年はないのだ」と、その決意の前に私たちは黙って、その応援をするしかないことを覚悟しました。
そして、秋を迎え、あなたは重大な決意をされました。既に肝ガンは肺にも転移していました。あなたは、自分にも癌を発症していることを全国の患者会の会合で発表し、共に闘うことを呼びかけたのです。11月18日から名古屋で開かれていたこの日本肝臓病患者団体協議会の第10回総会は大きな成功をおさめ、肝炎の撲滅と全国の患者救済を掲げ大きく一歩を踏み出したのです。そして、6月8日には全国の肝炎患者を動員して、厚生労働省をとり囲む人間の鎖の大集会を開くことが決議されました。それからのあなたの活動は、その大集会に北海道から大量に患者を参加させること、そして自分も参加することが目標となりました。
しかし、昨年12月、あなたは最愛の弟さんを同じ肝ガンで失うことになりました。あなたは何度も自分を責めていました。自分がB型肝炎だということは、同じ小学校に通っていて予防接種を受けていた弟も、同じB型肝炎である可能性が極めて高い、検査をすすめたが実際にしたかどうかを確かめなかった。だから弟は何も知らず、いきなり肝ガンを宣告されてしまった、と自分の責任であるかのように陥り込んでいました。このころから、あなたの体力も急激に低下していくのが周囲にも分かりました。
あなたは、その得意な手品も難病連旭川支部の仲間たちに教えこみました。私には旅立ちの準備をしているように見え、切ない思いの中で、つとめて皆で明るく楽しく時をすごそうとしていました。
2月16日に開かれた北海道との協議に参加された時には、あの朗々とした声にも張りはありませんでした。3月10日に旭川で開かれた難病連の道北地区の役員研修会では、本当に辛そうでした。それでもあなたは翌日の札幌の肝炎の会議に参加しました。
あなたは言いました。「これがヤマ場だ、はってもずってでも行かなければならない」と。そして帰ってきて、あなたは倒れました。友人によって病院に運ばれ、一たんは家に帰ったとのことです。この時までには、あなたは既に札幌の病院に通う体力はなく、旭川の病院に転院することを決めたばかりでした。
そしてあたなは再び翌日3月19日救急車で旭川厚生病院に運ばれたのです。病院では呼吸が苦しく、下肢も大きく腫れ、あまりの息苦しさに横になることもできず、ベッドの頭を上げて、まっすぐに上体をおこしたまま、眠ることもできないままの日々を過ごすことになってしまいました。
しかし、その凄まじい闘病の中にあって、息苦しくとぎれとぎれの言葉の中でも、私たちと患者運動のことを話し合い、方針を確認し、そして仕事の指示を出していたのです。時には冗談も言い、もう少しよくなったら病院から事務所へ通うと言っていました。医師には頼むから6月8日の肝炎の全国大集会には出させてほしいと言い、医師も大丈夫だと励ましていました。
奥さんもつきっきりで看病していました。「お父さんは意志の強い人だから必ず良くなる、先生も良い方向に向かっていると仰っている。」といつも前向きに話されていました。あなたを心の底から信じていたのでした。
あなたは仕事に復帰するつもりでいました。やり残したことがたくさんある、自分でなければ分からないことがる、と言っていました。
そのとおりです、このまま、帰ることができなくなるとは、あなたは全く思ってもいなかったことでしょう。 あなたが仕事をしていた机も書類も全てそのままです。そしてそのかたわらには、仕事をしながらも息苦しかったのでしょう。あなたが使っていた携帯用の酸素がひっそりと置いてありました。
あなたが旅立ったその日、北海道新聞の朝刊には肝炎の問題が大きくとりあげられていました。今、国は国民の大きな世論におされ、肝炎対策に取り組まざるを得なくなっています。しかし、少しでも責任を軽くしよう、金を使わないようにしようと逃げ道を探してばかりいます。
今、私たちはB型肝炎もC型肝炎もその蔓延は国に責任があることを明確にさせ、国の責任において全国民を対象とした対策をとらせようとしています。私たちはまだまだ闘いを強めます。あなたも一緒に参加して下さい。私たちは、あなたと共に歩みます。
すっかり雪も溶け、春らしくなった旭川の街で、またすぐにも会えそうなあなたのことを思いながら、「これは悪い冗談だよ」というあなたの声を聞きました。私たちも心から、あなたともう一度会いたいと思っています。今ここで、こうしてお別れの言葉を述べなければならないことが本当に残念です。
2001年4月12日
財団法人 北海道難病連 代表理事 小田 隆
専務理事・事務局長 伊藤たてお