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膠原病

もくじ

自己紹介

H.N
HIROさん♪♀
出生地
旭川市
生息地
旭川市
出生日
19XX年4月14日
血液型
二重人格のAB型(Rh+)
趣味
SMAP鑑賞・長電話・MAIL・Shopping・オークション・ドライブ(助手席専門)・旅行(最近行ってない・・・)
性格
気は強いが身体弱し(爆)、見かけによらず(?)シャイ(^O^)意外と好奇心旺盛、たまにオオボケかます(Sさん証言)
特技
下手の横好きの手抜きお料理&お菓子作り
略歴story

今からうん十年前、チューリップが満開に咲く頃、旭川のとある病院でおぎゃ〜〜と生まれました。子供の頃の私は、ちょっと姉御肌(?)の性格でいじわるしてる人を見ると、「ちょっとォ〜!なにやってんのォ〜!!」と相手が男の子だろうが年上だろうが構わず立ち向かっていくような正義感にあふれる清く正しい小学生でした。(笑)そんな私もお年頃の中学生…。好きな人もいました。(ヘェー!ソーナンダ・・・)その人とは、一応(?)付き合ったんですがね。数ヶ月で別れちゃいました。(爆)(^o^;A(アハハ・・・)青春真っ盛りって感じで毎日すごく充実した生活を送っていました。その後……私の体に異変が…!SLE…全身性エリテマトーデス。これが、私の正式な病名です。膠原病と言った方がわかりやすいかしら?病気の話は、また他のページでお話するとして…病気していて、同級生より一年遅れだったけど高校へも進学したし、短大だって行きました。高校は、野球で有名だった(?)某私立高校へ通ってました。あの制服が気に入って入学しました。高校での思い出は…週一回忘れもしない、水曜日の6時限目、体育館に全校生徒が集まり、ミサ…もとい、仏参という行事がありました。あれは、強烈でしたねぇ〜〜。なんせ体育館中にお線香の匂いが漂ってくるんですから…(笑)あと、自慢ですが…(笑)高校時代は一年に一回は入院していた私ですが、成績はなかなか優秀でした。自分で言うのもなんですが・・ホントです。(^-^;A(まぁ…ココだけで成績がよくても仕方ないのですがとりあえず過去の栄光を語っておこうと思います。)その成績を引き下げて(?)高校卒業後は、市内の某女子短期大学の生活科へ推薦入学で進学しました。なんで、もっと別の大学へ進まなかったかって?それはね…病気してるからって理由で親元から離してもらえなかったの…。うちの親心配性だから…(苦笑)でもね、高校の友達も一緒に進学したから心強かったですよ。それなりに、楽しく学生生活を満喫しました。(^^)

その後…就職活動ってのをしたのだけど、病院通いをしてるというと、やっぱりハンディがあるのカナ?なかなか理解を示してくれる会社はなかったなぁ〜。旭川には…。仕方ないから、家で家事手伝いの身分になりました。そして、たまに郵便局とかでバイトとかしたりして毎日を過ごしてました。

プライベートでは、高校時代の友達と今も付き合いがあってたまに一緒に遊んだりもしてます。

友達ってすごく大事ですよね。生きていく上で、友達がなによりの支えになることってあると思います。時には、一緒に笑い、時には、一緒に泣いて…励ましあったり、傷付け合ったり…そんな繰り返しが出来るのが本当の友達だと思います。

今はまだお互い未熟だから相手のことを思いやることまで出来ないのかもしれません。でも、いつかおばあちゃんになった時、あの時はこうだったね…って笑って話せる時がくるといいなぁ・・って思っています。

...the end...

膠原病(SLE)えとせとら

ここでは、膠原病に関することだけを載せています。「難病情報センター」を参考にさせてもらいました。

膠原病(SLE)ってどんな病気?
1.名前の由来
一般に、病気は心臓病、腎臓病などのように、一つの臓器を単位として命名されてきました。病気になるのは、個々の臓器を構成している細胞に異常が起こるためである、と考えられるようになったのは19世紀の中頃からです。20世紀に入って全身牲ユリテマトデス、強皮症などの病気では一つの病気にもかかわらず皮膚、関節、腎臓、肺臓、心臓など多数の臓器が侵されることがわかってきました。942年にクレンペラーという病理学者か病理組織学的に研究して、これらの病気では全身にくまなく分布している膠原線推(結合組織の一つの成分)に共通する病変があることを見出して、これらの病気を一括して膠原病という名前をつけることを提案しました。
2.結合組織・膠原線推とは
ここで結合組織・膠原線推について少し説明しておきましょう。結合組織は生体の臓器と臓器、あるいは組織と臓器の間をくまなく埋めている組織です。その主な役割は、個々の細胞、組織、あるいは臓器を保護したり、結合させたり、あるいは支持しています。また、細胞に酸素や栄養分を補給して細胞の働きを維持しております。膠原線推は結合組織の中の代表的な線推で、「膠原」という名前が示すように、この線推は加熱すると膠(にかわ)に変わります。皮膚や腱などに多量に含まれ、肉眼でも白い光沢のある線推として観察されます。骨、軟骨、象牙質の土台をなしているのもこの膠原線推です。
3.膠原病の特徴
クレンペラーは、その後、全身性ユリテマトーデスと強皮症に加えて、リウマチ熱、慢性関節リウマチ、皮膚筋炎、結節性多発動脈炎も膠原病の仲間に入れました。最近では前述の6疾患以外にシエーグレン病、混合性結合組織病なども膠原病として扱うようになりました。リウマチ熱は、第2次世界大戦後に溶血性連鎖球菌の感染後に発症することが分かり、ペニシリンの使用で文明国では激減した唯一の膠原病です。その他の膠原病の原因は、多くの研究者の努力にもかかわらず、いまだに不明ですが、免疫機構に異常が起こって発病する病気であることは分かって釆ました。また、治療法も年々進歩し、予後も改善し、それ程恐ろしい病気ではなくなりつつあります。その証拠に多くの膠原病患者は治療しながら家庭で、あるいは社会に出て活躍しております。膠原病は、前述した如く、全身にくまなく分布している結合組織に病変が起こりますので、「膠原病は全身病である」ことは容易に理解されると思います。ここで膠原病に共通してみられる特徴を述べてみましょう。
  • 発熱、体重減少、易疲労などの全身症状を伴う全身性炎症牲疾患である。
  • 二つ以上の臓器が障害される多臓器障害性疾患である。
  • 良くなったり、悪くなったりを繰り返す慢性疾患である。
  • 種々の自己抗体(自分の身体を構成している成分に対する抗体)が証明される自己免疫疾患である。
このように各膠原病間には共通している点か多くみられますので、ややもすると一つの病気の如く錯覚しかちですか、それぞれの病気ごとに特徴的な症状もあり、病気の経過も予後も全く異なり、さらに治療方法も看護の仕方も違いますので、「膠原病」という診断名は存在しないことは覚えておく必要があります。「膠原病は遺伝するか」とよく質問されます。親子の顔か似るように、「病気のなりやすさ」は遺伝する可能性はありますが、どの膠原病も決して遺伝病ではありませんので、無用な心配はしない方かよいと思います。
4.慶應病との付き合い方
「膠原病は難病である」と言われて久しいのですか、世間で言われているほど難病でしょうか。確かに原因も不明ですし、根治療法もありません。そういう意味では難病といってもよいでしょう。難病と言われていない病気の中にも、原因も不明で、根治療法もない病気はまだまだ沢山あります。ですから膠原病であるからといってもう特別扱いするのは疑問かあります。まして20年前に比べて膠原病の治療法は大変進歩し、今日ほんの一部の患者を除いて大多数の患者は治療しなからでも健康な人と同じように主婦として、あるいは社会人として立派に活躍しております。ですから、膠原病になったからといって、特別な病気にかかったという認識はそろそろ捨て去るべき時代に入ったと言ってよいでしょう。最後に「膠原病との付き合い方」を箇条書きで述べてみますが、特別変わったものではなく慢性病に共通したものであることが分かるでしょう。
  • 自分の病気を正しく理解する。
  • 二つ以上の臓器が障害される多臓器障害性疾患である。
  • 現在、自分の病気かどんな状態であるのかを常にチェックする。今何かできて、何ができないのかをはっきりさせるために、このことが大切になる。
  • 今受けている治療法を知る。大切な薬の名軋量、副作用を書きとめておく。
  • 前向きな姿勢で生活する。「病気ではなかったら」とは考えない。家庭で、あるいは仕事場での自分の役割を明確にして日常生活を暮らす。
  • うわさ、マスコミの報息民間療法に惑わされない。
全身性エリテマトーデス
1.全身性エリテマトーデスとは?(定義)
この病気は、英語でsystemiclupuseryhtematosusといい、その頭文字をとってSLEと略して呼ばれます。systemicとは、全身のという意味で、この病気が全身のさまざまな場所に、多彩な症状を引き起こすということを指しています。lupuserythematosusとは、皮膚に出来る発疹が、狼に噛まれた痕のような赤い紅斑であることから、こう名付けられました(lupus、ループス:ラテン語で狼の意味)。発熱、全身倦怠感などの炎症を思わせる症状と、関節、皮膚、内臓などのさまざまな症状が一度に、あるいは次々に起こってきます。その原因は、今のところわかっていませんが、免疫の異常が病気の成り立ちに重要な役割を果たしています。
2.この病気の患者さんはどのくらいいるのですか?(疫学・頻度)
頻度:日本全国に2万人〜4万人程の患者さんがいると考えられています。難病の申請をしている方は、43、177(平成8年)ですが、申請をしていない方、医療機関に受診していない方などを含めると、この2倍位の人がこの病気をもっていると推定されています。
疫学:たくさんの人種が生活しているアメリカ合衆国での調査によると、この病気は、白色人種には比較的少なく、アメリカインディアンなどの有色人種に多いといわれています。ある特定の地域での発生も報告されていますが、日本においては、地域差などは見られません。また、輸血によって病気が起こったという報告もなく、特別な環境が病気の発症に関係しているという証拠は見つかっていません。
3.この病気はどのような人に多いのですか?(男女比・発症年齢)
男女比:平均すると男女比は1:9ほどで、圧倒的に女性に多い病気です。なかでも生理が始まってから終わるまでの期間に多く、子供、老人では、逆に男と女の差が少なくなります。
発症年齢:すべての年齢に発症しますが、15才から65才までの、子供を産むことの出来る年齢に多く起こります。
4.この病気の原因はわかっているのですか?(病因)
原因:多くの研究が世界的に行われていますが、残念ながら今のところはその原因はわかっていません。ただ、自分自身の体を、自分自身の免疫系が、攻撃してしまう病気です。本来なら、免疫とは、自分の身を細菌やウイルスなどから守ってくれる大切な役割をしているのですが、この病気にかかると、この免疫力が自分の体を攻撃するようになり、全身にさまざまな炎症を引き起こします。
誘因:何かのきっかけによって、病気が起こったり、あるいは病状が悪化したりすることがあります。そのきっかけになるもの(誘因)がいくつか知られています。紫外線(海水浴、日光浴、スキーなど)、風邪などのウイルス感染、怪我、外科手術、妊娠・出産、ある腫の薬剤などが、知られています。
病態:自分自身の体に対する免疫は、血液中の抗体を調べることによって、判断できます。この病気の患者さんの95%以上が、血液中に、抗核抗体という抗体をもっています。自分自身の細胞のなかにある核と反応してしまう抗体です。この抗体が、自分の細胞の核と反応し、免疫複合体という物質を作って、全身の皮膚、関節、血管、腎臓などにたまって病気が引き起こされると考えられています。このほか、免疫を司るリンパ球も直接、自分の細胞、組織を攻撃すると考えられています。
5.この病気は遺伝するのですか?(遺伝)
この病気のお母さんから生まれる子供の発症頻度:この病気を持っているお母さんから、どの位の頻度でこの病気の子供が生まれるか、詳しい統計は難しく、きちんとした成績がありません。しかし、その頻度は、低いながらも、一般のひとの発症頻度よりも高いと考えられています。
一卵性双生児:遺伝子が同じと考えられる一卵性双生児では、どの位の割合でこの病気が起こるのでしょうか。多くの報告では、30%程度とされています。ですから、遺伝子が同じでも30%しかこの病気が起こらないといえます。すなわち、残りの70%は、何らかの環境要因が考えられます。
多発家系:ただ、この病気を含め自分自身の体に対するする免疫が起こる病気(自己免疫病)が、親族に多く見られる家系があります。それが、どのような遺伝子と関係しているか、世界中で研究が行われています。その候補となる遺伝子がいくつか報告されています。
6.この病気ではどのような症状がおきますか?(症状)
一般的に、全身症状、皮膚関節症状がほとんどの患者さんに見られます。これに、さまざまな内臓、血管の病気(一人一人異なる)が加わります。この内臓の症状が全くない軽症のタイプもあります。
全身症状:発熱、全身倦怠感、易疲労感など
関節症状:手や指が腫れて、痛む関節炎を起こします。肘、膝などの大きな関節に、日によって場所が変わる移動性の関節炎が見られることもあります。
皮膚症状:もっとも有名なのは、頬に出来る赤い発疹で、蝶が羽を広げている形をしているので、蝶型紅斑と呼ばれています。皮膚をさわると、一つ一つが丸い発疹が、重なりあい、少し盛り上がっているのが特徴です。同じ、頬に出来るものにも、盛り上がりのない、ハケで薄紅色の絵の具をぬったような紅斑も見られます。また、一つ一つが丸く、ディスク状(レコード盤)のディスコイド疹も、この病気に特徴的で、顔面、耳、首のまわりなどに好発します。 日光感敏症:強い紫外線にあたった後に、皮膚に赤い発疹、水膨れ、あるいは熱が出る人がいます。このような症状は、日光過敏症といい、この病気でよく見られます。この症状が、病気の始まりであることも少なくありません。しかし、この病気以外にも、日光過敏症を起こす病気がいくつかありますので、それらとの区別が必要です。
口内炎:多くは、口の奥、頬にあたる部位や上顎側に出来る粘膜面がへこんだもので、痛みが無く自分で気付かないことがしばしばです。痛みを伴うベーチェット病の口内炎と対照的です。
脱毛:朝起きたときに、枕にこれまでなかったほどたくさん髪の毛がつくようになります。また、円形脱毛のように、部分的に髪の毛が抜けたり、全体の髪の量が減ったりすることもあります。また、髪が痛みやすく、髪の毛が途中から折れてしまう人もいます。
臓器障害:様々なものが知られています。すべての症状が起こるわけではなく、一人一人によって、出てくる症状、障害される臓器の数が違います(全く臓器障害のない、軽症のひともいます)。
7.この病気にはどのような治療法がありますか?(治療)
副腎皮質ステロイド剤:自分自身に対する免疫を抑えるため、免疫抑制効果のあるくすりを使います。なかでも、副腎皮質ステロイド剤は、特効薬として知られています。病気の重症度によって、その薬の量が違います。この薬剤は、副腎皮質という場所から出ているホルモンを、化学的に作ったもので、代表的なものはプレドニゾロンです。一日5mg相当のホルモンが体内から出ていますので、5mgのプレドニゾロンを飲むということは、自分自身が毎日作っている量と同じ量を補うことになります。一般的に、重症のかたでは、一日50〜60mgを必要としますし、逆に軽症の人では15mg程度で十分のこともあります。最初2週間から一ヵ月この量を続け、徐々に減らして10mg前後を長期に飲み続けます。 免疫抑制剤:副腎皮質ステロイド剤が、効果不十分か、副作用が強い場合に、免疫抑制剤を使うことがあります。アザチオプリン(イムランなど)、サイクロプォスプァミド(エンドキサンなど)、ミゾリビン(ブレジニン)、サイクロスポリンA(サンヂュミン)などです。
ステロイドパルス療法:副腎皮質ステロイドを、点滴で大量に使用する方法です。口から飲むより、より早く、かつ効果も高いとされており、重症度のかなり高いかたに使われます。一般的には、三日間の使用ですので、この間副作用も比較的少ないとされています。その後は口からの服用に切り替えます
体外循環療法:血液中の病気を引き起こしている免疫複合体やリンパ球を、体の外に取り出してこれをフィルターを使って取り除く治療法です。ステロイドや免疫抑制剤がどうしても使用できない、あるいは効果が不十分な場合に使われます。
抗凝固療法:血栓を作りやすい抗リン脂質抗体症候群を合併しているひとでは、小児用バッファリン、ワーファリンなどによって、血栓の予防が行われます。
支持療法、対症療法:腎不全のときの透析療法など、その病状に合わせて治療が行われます。また、血行障害の強いひとでは、血管拡張剤などが使われます。
8.この病気はどういう経過をたどるのですか?(予後)
病型、重症度によって異なる:臓器障害の広がり、重さによって、病気の重症度が異なります。関節炎や皮膚症状だけのひとは、薬剤によるコントロールもつけやすく、健康な方とほとんど変わらない、普通の生活が出来ることも珍しくありません。一方、腎臓、中枢神経、血管炎などでは、多種類の薬剤を、大量に、そかも長期にわたって使わなければならないことがあります。したがって、一口に全身性エリテマトーデスといっても、その病気の広がり、重症度によって、その後の経過は、全く異なります。しかし、そのコントロールは年々改善され、数十年もこの病気と付き合っている患者さんも増えてきました。そのため、高齢化に伴って起こってくる生活習慣病(動脈硬化、糖尿病、高血圧など)などに対する対策も必要です。
薬剤反応性、予後:副腎皮質ステロイド剤が、この病気の特効薬として知られています。この薬が知られていなかった、1950年代に比べ、この病気のコントロールは、飛躍的に進歩しました。この頃には、5年以上生き延びる人は50%程とされていましたが、現在では90%以上にまで改善しています。しかし、病型によって、ステロイド剤の効きやすいもの、効きにくいものがあります。免疫抑制剤が使われるようになって、病気のコントロールはさらに良好になってきています。
9.よく聞かれる質問とこたえ(FAQ)
Q1:血液検査をしたら、抗核抗体が陽性といわれたのですが?
A:この病気の診断は、症状と検査の組み合わせで行います。症状がなく、検査だけ異常というひとは、まず心配ありません。抗核抗体は、この病気の95%以上のひとで陽性になる大切な検査ですが、最近検査法が進歩し、正常な人でも時々陽性になる人がいます。健康な若い女性では5〜10%にこの検査が陽性になったとする報告もあるくらいです。
Q2:自覚症状があまり無いのですが、すぐに入院して、治療を受けなければいけませんか?
A:自分で感じられる症状と、実際の病気の重さが食い違うことはよくあります。重い内臓障害、たとえば、腎炎などでは症状が全くないこともあります。病気の重症度によっては、早急に入院し、きちんと治療しなければならないことがあります。逆に、関節が痛くて身動きも出来ない、といったケースでも、薬剤の反応が良好と考えられれば、外来で治療を継続することもあります。
Q3:子供を作ることが出来ますか?
A:以前は、子供を作らないほうが良いとされていましたが、現在では、内科、産科、小児科の経験、知識が深まり、ある条件を満たせば出産ができるようになりました。個人個人の状態によって異なりますが、活動性がないこと、そしてできれば腎障害などの重篤な内臓病変がないことが条件です。仮に、出産が許可されても、母体、流産、早産などのリスクは、健康なひとよりは、高いという認識は必要だと思います。妊娠、出産に関しては、主治医とよく相談の上、各科の連携がとれた医療機関で、慎重に臨まれるべきと思います。
Q4:日頃どんなことに気をつけたらいいでしょうか?
A:病気を悪くするきっかけ(誘因)は、先にあげたいくつかのものが知られています。そのなかでも、特に、そのひと、そのひとによって特に強く病気を誘発するものがあります。自分の病気の始まりのことを、再燃時のことをもう一度思い返し、その前後で起こったことを考え、注意すると良いでしょう。一般的に、規則正しい生活、充分な休養、安静、を心がけるようにして、精神的にも、身体的にもストレスをなるべく避けることです。また、日によって体調が変わりやすいのもこの病気の特徴です。その日、その日の体調に合わせて、生活パターンを変える必要があります。
シェーグレン症候群
1.シェーグレン症候群とは?(定義)
シェーグレン症候群は主として中年女性に好発し涙腺・唾液腺を標的とする臓器特異的時自己免疫疾患ですが、全身性の臓器病変を伴う全身性自己免疫疾患でもあります。シェーグレン症候群は各種膠原病(慢性関節リウマチ、全身性エリテマトーデス、全身性硬化症、皮膚筋炎、混合性結合組織疾患)に合併する二次性シェーグレン症候群と、これらのない原発性シェーグレン症候群に分類されます。原発性シェーグレン症候群の病変は3つに分けることができます。1つ目は眼乾燥、口腔乾燥のみを示し、患者さんはほとんど゛健康″に暮らしている人もありますし、乾燥症状に悩まされている人もあります。2つ目は何らかの全身性の臓器病変を呈する場合です。3つ目はごく稀ですが悪性リンパ腫やマクログロブリン血症を発症する状態です。
2.この病気の患者さんはどのくらいいるのですか?(疫学・頻度)
厚生省の研究班のデータでは1年間に病院などで受療した患者さんは15,000〜20,000人とされました。しかし、これが日本の全患者数であるのかははっきりしません。アメリカのデータを日本人に当てはめるとこの人数よりも多くの患者さんがいると推定されます。
3.この病気はどのような人に多いのですか?(男女比・発症年齢)
この疾患の年齢層は50〜60才台にピークがありますが、少数ですが子供から80才の老人まで発症します。男女比は男:女=1:14で女性に多く発症します。慢性関節リウマチの患者さんの約1/4にシェーグレン症候群の発症があります。その他の膠原病の患者さんにも発症することがあります。
4.この病気の原因はわかっているのですか?(病因)
遺伝的要素、ウイルスなどの環境要因、免疫異常、女性ホルモンの要因が考えられていますが、正確なところは分かりません。これらの4つの要因が複雑に関連し合って発症するものと考えられます。
5.この病気は遺伝するのですか?(遺伝)
家族に同じ病気が発症する率は2%位とされています。これはそうでない人と比べ少し多いですが、疾患そのものが遺伝することはありません。
6.この病気ではどのような症状がおきますか?(症状)
1.目の乾燥:涙が出ない・目がころころする・目がかゆい・目が痛い・目が疲れる・まぶしい・物がよくみえない・目やにがたまる・悲しい時でも涙が出ない
2.口の乾燥:口が渇く・唾液が出ない・摂食時によく水を飲む・口が渇いて日常会話が続けられない・味がよくわからない・口が痛む・虫歯が多くなった・外出時水筒を持ち歩く・夜間に飲水のために起きる
3.鼻腔の乾燥:鼻が渇く・鼻の中にかさぶたができる・鼻出血がある
4.その他:唾液腺の腫脹と痛み・膣乾燥(性交不快感)・レイノー現象・関節痛・アレルギー・夜間頻尿・紫斑・皮疹・日光過敏などの他に臓器特有の症状があります。
7.この病気にはどのような治療法がありますか?(治療)
目の乾きに対してはいろいろな目ぐすりが工夫されています。種々の人工涙液のほかに、防腐剤の入らない目ぐすり(ソフトサンティア)や、一回の使い捨て目ぐすり(ヒアレイン)などもあります。目の乾燥のひどい患者さんに対しては、眼科で涙の出口(涙点)を手術的に閉じる方法が行われており、大変良い結果が得られています。眼科の医師に相談してみてください。口の渇きについては、人工唾液(サリベート)のほかに、内服薬としてはフェルビテンのみが保険で認められいるくすりです。ほかに漢方薬を含めていろいろなくすりが工夫して使われており、現在治験中のものもあります。この病気の人は虫歯になりやすいので、口内を清潔に保つことが非常に大切です。全身性の病気のある人は、内科などで適した治療を受けるべきです。 この病気は自分のからだの中に原因があるわけで、現在、病気そのものをとりのぞくことはできません。したがって、第一にこの病気を理解し、上手につきあっていく覚悟を固めてください。そして定期的な治療と健康管理を受ける必要があります。そのうえで、自分でできることは何でも積極的にやるという前向きの生活をするべきでしょう。定期的にチェックを受けているかぎり、少しの体調の変化はあまり気にしないことも大切です。
8.よく聞かれる質問とこたえ(FAQ)
Q1:シェーグレン症候群の診断には口唇を切って診断する必要があるのでしょうか
A:必ず口唇小唾液腺生検をしないと診断ができないわけではありませんが、この検査は患者さんの病変がどの程度ひどいのか、活動性があるのか、又は線維化して治療の効果が望めないのかなどの多くの情報が得られる検査ですので、専門医ではこれを受けられることをおすすめします。下唇の内側を約1p切開しますが、傷は1―2日で治りますし抜糸も4日で行います。外来で時間は20分位です。特に心配されることはありません。
Q2:レイノー現象はシェーグレン症候群におこるのでしょうか
A:約1/3の患者におこります。寒冷時に指先が蒼白となり、しびれ感や痛みを伴い、暖めたり、手をこすり合わせるとピンク色となり、しばらくして紫色に変わってもとに戻ります。レイノー症状自身は心配のあるものではありませんが、膠原病などに合併しておこることがあるので専門医に相談されるのが良いと思います。
Q3:5年、10年後にはひどい状態になるのでしょうか
A:10年〜20年経ても、現在の状態と全く変化ない状態で暮らしている患者さんが半数以上です。この人達の検査をしてみると軽度の異常を示す人もありますが、変化のない人が多いです。 その他の4割の人で、何らかの新しい病変が出る人があります。これらはごく軽度なものから、腎病変、間質性肺炎まで様々です。 定期的な健康チェックを受けていると安心です。
Q4:シェーグレン症候群と診断されたのですが近くの専門医を紹介してください。
A:上にあげた本の後部に専門医の名前と住所が載せてあります。又、シェーグレン症候群のホームページをみてもらうと名前と病院が載っています。ホームページはこちらです。
強皮症
1.強皮症とは?(定義)
皮膚が硬くこわばってくる症状が現れる病気ですが、皮膚とその下部組織(筋肉を含めて)に弾力を失って硬くなる場合と内臓にも同様な変化を来す2つの現れ方があります。皮膚と筋肉のみを侵す場合は限局性強皮症、内臓も侵す型を全身性硬化症と言います。全身性硬化症は進行性全身性硬化症・全身性強皮症とも言われています。全身性強皮症は硬くなる変化(これを線維化と言います)が皮膚だけでなく、肺、食道、腎臓などにも同じ変化が起こるので全身性硬化症と呼ばれるようになっています。また病変がそれほど進行しない例も多くあることから進行性という言葉は使用しない傾向にあります。全身性硬化症の場合多くの患者さんはレイノー現象(特に寒冷時に指趾に色調の変化:蒼白から数分後に紫藍色ついで潮紅し、やがて正常の色となる)が皮膚の硬化前に現れます。
2.この病気の患者さんはどのくらいいるのですか?(疫学・頻度)
平成7年度までの特定疾患医療受給者の統計を図1に示します。図は強皮症、皮膚筋炎及び多発性筋炎を合わせた統計ですが、この約半数が強皮症と考えられますので全国で1万人前後の患者さんがいると考えられます。この統計からもおわかりのように毎年1割の患者さんが新に登録されていることから、その数倍の強皮症予備群的な人がいると推定されます。
3.この病気はどのような人に多いのですか?(男女比・発症年齢)
男女比は1:10で女性に圧倒的に多く、幼児から老人にいたるまですべての年齢層に見られますが、30から50歳代に最も多く発症しています。ことに更年期前後の女性に好発します。男性発症者はより重症になる傾向が強いようですが、本症の予後は以前に比べて改善傾向にあり、5年生存率で約94%、10年生存率で82%となっています。
4.この病気の原因はわかっているのですか?(病因)
本症の病因は十分に明らかにされていないのが現状です。これまでの病態解析から、病気の原因は1つでなく、複数の要因が重なり合って発症するのでないかと考えられています。
免疫異常は膠原病の患者さんに共通して見られる現象ですが、90%以上の強皮症の患者さんでは抗核抗体が陽性となることがわかってきました。抗核抗体はいくつかの種類がありますが、検出される抗核抗体の種類と強皮症の病型関連性についてはある一定の原則が見られることもわかってきました。抗トポイソメラーゼ抗体(Scl-70)は強皮症の患者さんの約40%に検出されています。この抗体は皮膚の硬化が比較的広い範囲に見られる場合や肺の線維化が見られる場合と相関しています。抗セントロメア抗体陽性の強皮症患者さんは、皮膚の硬化の範囲やその程度が軽く、進行も緩徐で、肺線維症の合併も1割以下であります。このほか皮膚に石灰沈着や血管拡張を伴うことが多いようです。レイノー症状のみ示す患者さんでこの抗体が陽性になる場合は長年の経過で皮膚の硬化が現れることが予想されます。抗n-RNP抗体が検出される強皮症の患者もみられます。この抗体は混合結合組織病の患者さんに特徴的ですが、抗n-RNP抗体陽性の患者さんは皮膚にむくみをともなって硬化があるのが特徴です。
血管異常説は強皮症患者さんにレイノー現象、指先の皮膚潰瘍、壊疽が起こることから考えられていますが、何故血液の流れが悪くなり、血管を包む内皮細胞が障害されるのかについては明らかにされていません。線維芽細胞異常説は臓器に線維化が起こることから考えられています。線維芽細胞は線維化の基になる成分を産生する細胞で、コラーゲンという線維性の蛋白質を主に合成します。けがをしたとき、傷あとがひきつることがありますが、欠損した部位を埋めるようにコラーゲンが沈着するために皮膚が硬くなり、ひきつりが起こります。強皮症の患者さんから皮膚の線維芽細胞を培養して線維化のもとになる成分を調べますと、病気の初期ではコラーゲン、プロテオグリカンなど線維化の基になる成分の合成が高まり、その成分を分解する酵素の発現が抑えられていることが判明しています。しかし、病気が落ちついている時期になりますと正常の人と比べて変化がありません。成長因子、あるいはサイトカインという生体内物質も線維芽細胞に影響を与えて、このような線維化になる成分の遺伝子を活性化し合成系が高まります。現在TGF-β、PDGF、CTGF、,IL-4が注目されているサイトカインです。
5.この病気は遺伝するのですか?(遺伝)
強皮症は遺伝病ではありません。病気を引き起こしやすい体質は、遺伝的支配を受けていますので家系内で遺伝します。しかしこの病気は複数の要因が重なり合って発症するのでないかと考えられていますように、病気を引き起こしやすい体質の人がこの病気になるとは限りません。実際、家族内発症の例は極めて珍しいことです。強皮症は遺伝しないと言っても良いでしょう。
6.この病気ではどのような症状がおきますか?(症状)
強皮症の症状で皮膚の硬化が最も重要な症状です。通常、指先から徐々に前腕、体の中心に向かって皮膚が硬くなります。皮膚の硬化に気づかれる前に半数以上の患者さんはレイノー現象があったと言われます。また指のこわばり、指が腫れぼったい、手がむくむ、指輪がはずしにくいといった症状に気づかれる場合が多いようです。皮膚を摘むことによって皮膚の硬化の判定を行いますが、大きく指で摘んだり、小さく摘んだりして判定します。皮膚の硬化の判定は容易でありませんが、前腕では長軸に対して縦に摘んで判断します。その他の皮膚症状として顔面に硬化を来すと表情が乏しくなり仮面様の顔貌になったり、口の回りに皺が目立つようになります。また口が十分開くことが出来にくくなります。厳密には皮膚ではありませんが、舌の裏側のヒダ(舌小帯)が白く短くなる症状がは極めて重要な所見です。この変化は早期より見られます。血行障害によって手足に潰瘍が生じますが、この病気の場合は指先や、指、肘関節背面などの物と接する場所によく見られます。指先に潰瘍が出来た後、治りますと小さくくぼんだ傷跡が出来ますが、これを指尖虫喰い状瘢痕と言いこの病気に対して診断価値がある所見です。血行障害から軟部組織が萎縮するため指先の指腹が尖ったようになります。爪を含めて指が短くなったりします。またあまかわ(爪上皮)が伸びたり、点状に出血を見ることがあります。皮膚の硬化より皮膚の色が全体に黒ずんだという表現をされて来院されることもあります。この病気では色素沈着以外に点状に色素の脱出も見られます。点状の色素脱出は額、背中、鎖骨、前胸部に見られます。
関節症状として膝、肘、手首、指の痛みを訴えることがあります。また指が曲がり、伸びにくくなり(手指関節拘縮)、日常の家事に支障を来す場合があります。
頻度が高い内臓の変化は肺の線維症ですが、初期では無症状です。進行すると階段の上がり時に苦しくなったり、運動時の息切れ、乾いた咳が出る症状を訴えられます。胸部レントゲン写真で肺の下の方から陰影(網目状、磨りガラス状)が現れます。消化器症状として胸やけ、食物が飲み込みにくい、逆流の自覚、胸の不快感を訴えることがあります。その他肺線維症が長期間続く結果心臓に負担がかかり心肥大や心不全、不整脈、心嚢炎を起こすことがあります。血圧が急に高くなり、尿の出が悪くなると強皮症腎の疑いがあります。
7.この病気にはどのような治療法がありますか?(治療)
強皮症の治療についてまだはっきりと統一された治療法は確立されていません。病態からその治療の基本は免疫異常、線維化のコントロール、血行障害の改善を目指しています(表参照)。基本的には副腎皮質ステロイドは使用しませんが、早期の例、浮腫硬化が主な場合、急速な進行を示す例、免疫グロブリン高値が持続する場合や他の膠原病を伴う例には使用します。免疫抑制剤は副腎皮質ステロイドで十分な効果が得られない場合や副作用で使用出来ない場合に併用して使用することがあります。
8.この病気はどういう経過をたどるのですか?(予後)
皮膚の硬化が指、趾に限局している場合は体全体に硬化が急速に進行することはあまりありませんが、指の関節拘縮が進まないように曲げ伸ばしをしてください。入浴時にこれを繰り返すことで、進行を遅らせることも可能です。手の関節を越えて皮膚硬化がある場合、徐々に体全体に硬化が進むことがあります。しかし皮膚の硬化はやがて止まることもあります。硬化が止まると皮膚が萎縮しまが、関節の拘縮が一度起これば、なかなか伸ばすことは困難ですので、関節の曲げの伸ばしの運動をして下さい。皮膚に潰瘍を生じている人は二次感染に気を付けて、外からの圧がかからなように気を付けて、保温に気を配って下さい。全身に硬化が進みますと皮膚の付属器もコラーゲン線維に圧排されて萎縮します。その結果汗が出にくくなり、皮脂腺からの脂も減少するために、乾燥傾向になり痒みが出てきますので保湿剤を塗布して下さい。急激な運動は心、肺に負荷がかかりますので避けて下さい。
9.よく聞かれる質問とこたえ(FAQ)
Q1:酒・タバコはたしなんでもいいですか
A:タバコは肺病変を悪化させるので禁止して下さい。酒類は少量であれば血行を良くするので結構です。
Q2:温泉で治療したいがどうでしょうか
A:入浴は血行をよくし、精神的にもリラックスさせるので良いのですが、1日に数回も入ると心に負担がかかるので、温泉の内容を問い合わせた上、病状の状態をよく把握している主治医と相談して下さい。傷があれば入浴後消毒をしていただければ問題はありません。
Q3:子供を生みたいがこの病気は悪化しますか
A:皮膚の症状の悪化と妊娠はあまり関係がないようですが、心・肺機能や腎臓に妊娠は問題となることがあります。これらの機能に問題がなければ、特に心配はないと言えます。主治医と産科の先生と一緒に相談して下さい。子供さんにはこの病気は移ることはありません。
Q4:検査をいろいろされるのですが
A:いろいろの薬を症状を和らげるために投薬を受けておられると思います。副作用や、病気の進行状況を把握するためにも検査を進んで受けて下さい。
Q5:皮膚を取って検査するとのことですが
A:皮膚の硬化の度合いは触るだけでは困難なことがありますし、線維化の程度を把握するためにも必要な検査です。病気にとっても悪影響はありません。
Q6:限局性強皮症と診断されたが、強皮症になりますか
A:結論から言いますとその可能性は少ないものです。広範囲におよぶ病変がある場合は血液の検査で抗核抗体が検出される場合があります。定期的に検査と診察を受けて下さい。
混合性結合組織病
結節性多発動脈炎
多発性筋炎・皮膚筋炎
1.多発性筋炎・皮膚筋炎とは?(定義)
多発性筋炎は筋肉の障害(炎症・変性)により、力が入らなくなったり、疲れやすくなったり、筋肉が痛くなったりすることを基本的な症状とする病気です。また、特徴的な皮膚症状[ゴットロン徴候(手背側の手・指の関節表面の皮が剥けた紫紅色の皮疹)やヘリオトロープ疹(眼瞼部の腫れぼったい紫紅色の皮疹)など]を伴う場合には、皮膚筋炎と呼ばれます。本症は、1863年Wagnerがそれまで両上肢の骨膜炎と診断されていた女性の患者さんを検討して、「風邪、梅毒、外傷、などの原因を持たない炎症性筋疾患」であることを見い出したのが最初です。また、Umverrichtは、本症に特徴的な発疹を伴うことが多いことに気づき、皮膚筋炎という病名を提唱しました。しかし、この皮膚症状の有無で筋病変の特徴に差がないため、多発性筋炎・皮膚筋炎の名称で同一疾患として扱われています。その後、本症は強皮症(全身性硬化症)、全身性エリテマトーデス、慢性関節リウマチ、シェーグレン症候群など他の膠原病[体のいたるところの結合組織(いろいろな組織を結び付けているもの)や血管に炎症・変性を起こし、いろいろな臓器に障害をきたす病気]を合併したり、血管の炎症が小児例に見られたり、悪性腫瘍合併例が成人例に見い出されたり、必ずしもその病像(症状、検査所見など)が一定でないことが明らかになってきました。 多発性筋炎は当初筋肉(骨格筋)だけが障害される疾患と考えられていましたが、肺、心臓、関節、消化管、などの他の臓器障害も合併することがあり、膠原病や自己免疫疾患(自分の身体に対する抗体などを持ち、免疫のアンバランスがその病因と考えられる疾患)の一つに分類されています。
2.この病気の患者さんはどのくらいいるのですか?(疫学・頻度)
多発性筋炎・皮膚筋炎は比較的稀な疾患で、あまり正確にどの位の患者さんがいるのかはわかっていません。日本では、全国疫学調査の結果、1991年の年間推計受療患者数は、多発性筋炎3,000名、皮膚筋炎3,000名でした。年間発病率は人口10万あたり0.2-0.5人、有病率は人口10万あたり約6人(米国における調査では年間100万あたり約5-10人、英国北部での調査では約2.3人)と推定されています。各種調査での発病率・有病率は年々増加傾向にありますが、これは治療法の進歩などによりこの病気で亡くなる患者さんが減少したことに加え、病気に対する知識・情報が高まってきたこと、筋肉の炎症の程度を測定する検査法の進歩により、診断されやすくなったことが関係していると思われます。
3.この病気はどのような人に多いのですか?(男女比・発症年齢)
男女比:多発性筋炎も他の膠原病と同様に、女性の患者さんが多いことがわかっています。統計では男女比率が米国では1:5、我が国では1:2とされています。しかし、小児例では男女差はほとんど認められません。 好発年齢:多発性筋炎は乳幼児から老人まで全ての年代に見られますが、その好発年齢は小児期(5-14歳)に小さなピークと成人期(35-64歳)に大きなピークを持つ2峰性分布を示します。小児期では皮膚筋炎が皮膚症状のない多発性筋炎より多く、成人期では逆に多発性筋炎が多いと報告されています。このことは、小児期と成人期の多発性筋炎の病因の違いがあることを示しています。
また、地理的分布では差が見られませんが、人種については黒人が白人より発症率が高いという報告があります。
4.この病気の原因はわかっているのですか?(病因)
世界中で数多くの研究が行われていますが、残念ながら、現在のところ未だその原因はわかっていません。免疫の異常(自己免疫異常=自分の身体を細菌やウイルスなどから守る免疫のバランスがくずれて、健康人では認められない、自分の身体に対する抗体などを持つ異常)、ウイルスなどの感染、悪性腫瘍、薬剤の影響、遺伝的要因などが考えられていますが、いまだに確定されていません。多発性筋炎・皮膚筋炎では、他の自己免疫疾患(自分の身体に対する抗体などを持ち、免疫のアンバランスがその病因と考えられる疾患)と合併すること、自己抗体[自分の身体に対する抗体]などを持つこと、自己免疫異常を抑制する薬(副腎皮質ステロイド剤や免疫抑制薬)で病状が改善することなどから、自己免疫疾患と考えられてきました。しかし、ターゲットとなる病気の原因物質は見つけられていません。最近、免疫異常を起こす引き金として、ウイルス感染が注目されていますが、多発性筋炎の原因ウイルスは今のところ同定されてはいません。
5.この病気は遺伝するのですか?(遺伝)
多発性筋炎・皮膚筋炎の病因は未だ不明ですが、原因不明の他の病気と同様に遺伝的要因も考えられてきました。人種により発症率が異なったり、最近、遺伝因子を表わす白血球の型(HumanLeukocyteAntigen:HLA)との関連が研究され、多発性筋炎・皮膚筋炎と相関するHLAの報告もありますが、確定されてはいません。また、多発性筋炎・皮膚筋炎の兄弟間、親子間での発症の報告はありますが、一般的には家族内発症(遺伝関係)は稀です。むしろ家族歴のないことが他の代表的な筋疾患(筋肉を障害する病気)である、進行性筋ジストロフィーなどとの重要な鑑別点の一つと考えられています。
6.この病気ではどのような症状がおきますか?(症状)
筋肉の障害による症状(筋力低下)がほとんどの患者さんに認められます。さらに、筋肉以外の症状(内臓などの障害)も認めることがあります。これらの症状は決して全ての症状が起こるのではなく、患者さん一人一人によって症状も障害される臓器も異なります。全く内臓が障害されない、軽症の患者さんもいます。 「筋肉の症状」
大部分の患者さんで、筋肉が障害され、疲れやすくなったり、力が入らなくなったり(筋力低下)します。しかし、緩徐に発症することが多く、はじめは自覚症状のない患者さんもいます。特に、躯幹に近い筋肉が障害されやすいとされています。たとえば、下肢の筋力低下により-「しゃがんだ姿勢から立ち上がるのが困難となる」「風呂に出入りするのがつらい」「バスに乗る時、足が上りにくい」「階段が昇りにくい」などの症状、上肢の筋力低下により-「洗濯物を物干しにかけるのがつらい」「髪がとかせない」「高いところの物をとれない」「手に持ったものが普段より重く感じる」などの症状、頚の筋肉の障害により-「頭を枕から持ち上げられない」などの症状を認めます。物を飲み込むのに必要な筋肉(後咽頭筋)、言葉を話すのに必要な筋肉(構語筋)の障害により-物が飲み込みにくくなったり、鼻声になったりもします。さらに筋障害が強くなりますと、立てなくなったり、ベッド上の生活、車椅子の使用を強いられることもあります。また、筋肉痛を認める場合もあります。自覚的になくても、筋肉を握ったりすると痛む患者さんもいます。
「筋肉以外の症状」
  • 皮膚症状:両側あるいは片側の眼瞼部の紫紅色の腫れぼったい皮疹(ヘリオトロープ疹)、手指関節背面の皮が剥けた紫紅色の皮疹(ゴットロン徴候)、肘や膝などの関節の背面の少し隆起した紫紅色の皮疹が皮膚筋炎に特徴的とされ、これらの皮疹をもっている場合には、皮膚筋炎と診断されます。
  • 関節症状:約30%の患者さんに関節痛・関節炎が認められます。しかし、腫れたり、赤くなったりせず、持続時間も短く、軽症のことが多いと言われています。慢性関節リウマチのように、関節が破壊されたり、変形したりすることは稀です。
  • レイノー現象(寒冷時に手指が白くなり、ジンジンしびれたりする症状):約20-30%の患者さんで見られます。しかし、強皮症の患者さんと違い、軽症のことが多いようです。
  • 呼吸器症状:肺に炎症が起こり、咳や息切れ、呼吸困難などの症状を認めることがあります。この肺の炎症は細菌感染などで起こる肺炎とは異なり、間質性肺炎と呼ばれています。胸部レントゲン検査、胸部CT検査で診断されますが、約30-40%に合併しますので、定期的にチェックすることが大切です。
  • 心症状:心臓の筋肉が障害され、不整脈を起こしたり、心臓の力が弱ったりすることがあります。
  • 全身症状:その他の膠原病と同様に、発熱(しかし、高熱が出ることはめったにありません)、全身倦怠感、食欲不振、体重減少などを認めることがあります。
7.この病気にはどのような治療法がありますか?(治療)
一般的治療:発症した時(急性期)にはできるだけ安静にし、筋肉に負担をかけないようにすることが大切です。障害された筋肉の温湿布は筋痛の緩和に有効といわれています。身体のこわばり、動作の不自由さ・筋力の回復のために、リハビリテーション、理学療法は重要です。しかし、何時から開始し、どの程度を行うかは難しい問題で、患者さんの病状により様々です。一般的に筋原性酵素(CK値)が薬物療法により低下し正常値に近くなり、筋力が順調に回復していることを確認してから、徐々に開始します。本症では身体の蛋白の分解が亢進していますので、食事は高蛋白、高カロリー食で消化のよいものをとるようにします。
薬物療法:本症の治療は薬物療法が中心となります。主に副腎皮質ステロイド剤(ステロイド)が使用され、効果的です。一般に大量ステロイド療法(体重1kgあたりプレドニゾロン換算で1mg/日)が4-6週間行われ、筋力の回復、検査所見の改善を見ながらゆっくりと(数カ月かけて)、最小必要量(維持量)まで減量されます。急速な減量は再発をきたすことがありますので、慎むべきです。一般に筋力の回復は発病後の治療開始が早いものほど良いとされています。しかし、ステロイドが無効であったり、薬の副作用が著しく出てしまう場合には、免疫抑制剤が投与されることがあります。また、最近これらの治療でも効果が得られない時、γグロブリンの静脈内注射療法の有効な患者さんが報告されていますが、さらに今後の検討が必要です。
副腎皮質ステロイド剤(ステロイド):副腎皮質から分泌されるホルモンを、化学的に合成して作った薬剤で、その代表的なものがプレドニゾロンです。(私たちの体内では一日5mgのプレドニゾロンに相当する副腎皮質ホルモンが作られています。)炎症を抑える作用が強く、本症の原因と考えられている自己免疫異常も抑え、効果をもたらすと考えられています。このように有効で、多発性筋炎の治療に欠かせない薬剤ですが、副作用(感染症の合併、消化性潰瘍、糖尿病、骨粗鬆症、肥満、多毛、ニキビ、脱力、興奮・抑うつなどの精神症状など)を認めることもあり、慎重な投薬が必要です。
免疫抑制剤:副腎皮質ステロイド剤の効果が不十分であったり、副作用が出現した場合に、免疫抑制剤が使用されることがあります。メトトレキサート(メソトレキセート)、アザチオプリン(イムラン)、シクロホスファミド(エンドキサン)などです。いずれも、原則的にステロイド療法に併用されます。消化器症状、肺線維症、造血障害、肝障害などの副作用に注意して、定期的に血液検査を行う必要があります。
8.この病気はどういう経過をたどるのですか?(予後)
筋炎(筋肉症状)に対するステロイド療法の効果は大多数(75-85%)の患者さんで見られ、日常生活が可能となります。 生命予後は、悪性腫瘍、感染症、心肺合併症[物を飲み込む(嚥下)運動の障害による誤嚥性肺炎、呼吸筋障害による呼吸不全、心筋障害による心不全など]により左右されます。悪性腫瘍の合併のないものは生命予後は比較的良好で、5年生存率90%、10年生存率80%とされています。しかし、その経過は個々の患者さんにより異なります。現在、一番問題となっているのが肺に炎症を起こし呼吸困難をきたす間質性肺炎、とくにその急激に進行するタイプ(急性間質性肺炎)です。残念ながら、その原因は未だ不明で、治療法も確立されていません。この病態の解明と、有効な治療法の開発が膠原病の治療の中でも最も大きな課題となっています。
9.よく聞かれる質問とこたえ(FAQ)
Q1:多発性筋炎の患者さんが肝機能障害と診断されていることがしばしばあると聞きましたが、どうしてでしょうか?
A:多発性筋炎でも筋力が低下する以前に、全身倦怠感など肝機能障害と同様の症状を認めることがあります。また、一般的血液検査で、GOT、GPT、LDHなどの一般的に肝機能と呼ばれる検査の異常を認め、肝機能障害と判定されていることがしばしばあります。これは、肝機能障害がなくても、多発性筋炎の患者さんでは、筋肉の組織の破壊により筋肉由来のGOT、GPT、LDHが上昇するためで、肝機能障害のものと区別できません。このような場合には、肝臓に少なく、筋肉と密接に関連するクレアチンキナーゼ(CK)、アルドラーゼなどの筋原性酵素の測定が役に立ちます。これらの血液検査は、多発性筋炎の病気の強さ(活動性)と関連し、治療効果の判定や経過観察の指標となる最も大切な検査です。
Q2:多発性筋炎と診断され、医者にはできるだけ安静にするよう指示されました。しかし、筋肉を使わないでいると、より一層筋力が落ちてしまいそうで心配なのですが?
A:多発性筋炎を発症した際(急性期、亜急性期)には、筋肉の障害を最小限にするため、安静が必要です。筋力の増強をはかることは確かに大切ですが、そのためにリハビリテーションを早めることは逆効果で、再発を誘発することもあります。筋炎の活動性が鎮静化していることを確認した上で、筋力の回復、検査所見(CKなどの筋原性酵素値)を見ながらリハビリテーション(機能回復訓練)の開始時期と量を決めていくことが大切です。
Q3:日頃どんなことに気をつけたらいいでしょうか?
A:病気を悪くするきっかけは心身のストレスと言われています。規則正しい生活、十分な安静・休養をとるよう心がけましょう。本疾患は日によって体調が変わりやすいので、調子の悪い日は無理をしないようにブレーキをかけるとともに、前日にきっかけになったような無理・ストレスがなかったかを振り返ってください。特に、間質性肺炎などを合併している患者さんは、風邪をはじめとする感染症に注意してください。風邪をこじらせ、病気(間質性肺炎)を増悪させてしまうことがあります。手洗い、うがいを励行してください。
Q4:多発性筋炎の患者さんはどの診療科を受診するのがよいのでしょうか?
A:多発性筋炎は筋肉ばかりでなく、皮膚症状をはじめ他の臓器も障害されることがありますので、どの診療科がよいとは簡単には決められません。一般に、膠原病・自己免疫疾患の一つとしてリウマチ(膠原病・免疫)内科、筋肉の病気として神経内科、皮膚症状(発疹)を中心に皮膚科を受診される患者さんが大多数です。大切なことは、障害された臓器を中心に全身を総合的に診療できる専門医に診てもらうことです。病院により多少システムが異なりますので、かかりつけの先生や受診する病院のかたとよく相談して適切な診療科を決めてください。
慢性関節リウマチ
膠原病類縁疾患(ベェーチェット病)
1.ベーチェット病とは?(定義)
ベーチェット病(Behcet'sdisease)とは、口腔粘膜のアフタ性潰瘍、外陰部潰瘍、皮膚症状、眼症状の4つの症状を主症状とする慢性再発性の全身性炎症性疾患です。トルコのイスタンブール大学皮膚科Hulsi Behcet教授が初めて報告したのでこの名があります。
2.この病気の患者さんはどのくらいいるのですか?(疫学・頻度)
本症は日本を最多発国とし、韓国、中国、中近東、地中海沿岸諸国によくみられます。このためsilk road diseaseともいわれます。日本では北海道、東北部に多いです。現在約18、000人の報告があります。
3.この病気はどのような人に多いのですか?(男女比・発症年齢)
性差は従来、男性に多いといわれていましたが、最近の調査ではほとんど差はないようです。ただ、男性の方が重症化しやすく、内蔵病変をつくりやすいようです。とくに、眼病変は男性に多く、したがって、失明も男性に多くみられます。発病年齢は、男女とも20-40歳に多く、30歳前半にピークを示します。
4.この病気の原因はわかっているのですか?(病因)
病因は現在も不明です。しかし何らかの内因と外因が関与して白血球の異常が生じて病態が形成されると考えられています。内因については組織適合性抗原のHLA-B51と強い正の相関をもつことから、HLA-B51あるいはその遺伝子座の近傍に本症の発症感受性遺伝子が存在すると考えられ、現在解析中です。外因としてはある種の工業汚染物質の影響を考える人もありますが、虫歯菌を含む細菌類やウィルスも考えられます。
5.この病気は遺伝するのですか?(遺伝)
病因の項で説明しましたように、病気発症の原因の一つに内因の要素があり疾患関連遺伝子として組織適合性抗原のHLA-B51あるいはその近傍の遺伝子が考えられています。1991年の厚生省ベーチェット病調査研究班の報告によりますと、ベーチェット病のB51陽性率は53.8%(男55.1%、女52.0%、完全型58.3%、不全型51.5%)で正常人の約15%の陽性率に比べると有意に高く出現しています。したがって遺伝的素因はあるものの必ずしも発症するとは限りません。約2%前後が関連すると考えられています。それに複数の遺伝子の関与も考えられておりますし、更に発症には外因にもよることから遺伝性疾患ととらえることは困難と思われます。よって結婚のときにしばしば遺伝が問題となりますが、むしろ問題にすべきでないといった方が良いと思われます。
6.この病気ではどのような症状がおきますか?(症状)
ベーチェット病の主な臨床症状は以下の4症状です。
  • 口腔粘膜の再発性アフタ性潰瘍:口唇、頬粘膜、舌、歯肉、口蓋粘膜に円形の境界鮮明な潰瘍ができます。これはほぼ必発します(98%)。また初発症状としても重要です。
  • 皮膚症状:下腿伸側や前腕に結節性紅斑様皮疹がみられます。また"にきび"に似た座瘡様皮疹が顔、頸、胸部などにできます。皮下に血栓性静脈炎がみられることもあります。皮膚の被刺激性が亢進するので、"かみそりまけ"を起こしやすかったり、注射や採血で針を刺したあと、発赤、腫脹、小膿疱をつくったりします(針反応)。
  • 外陰部潰瘍:男性では陰のう、陰茎、亀頭に、女性では大小陰唇、膣粘膜に有痛性の潰瘍がみられます。
  • 眼症状:この病気でもっとも重要な症状です。ほとんど両眼が侵されます。前眼部病変として虹彩毛様体炎が起こり、羞明、瞳孔不整がみられます。後眼部病変として網膜絡膜炎を起こし、失明に至ることがあります。
主症状以外に以下の副症状があります。
  • 関節炎:膝、足首、手首、肘、肩などの大関節が侵されます。非対称性で、変形や強直を残さず、手指などの小関節が侵されない点で、慢性関節リウマチとは違います。
  • 血管病変:この病気で血管病変がみられたとき、血管型ベーチェットといいます。圧倒的に男性が多いといわれています。動脈、静脈ともに侵されますが、静脈系の閉塞がもっとも多く、部位では上大静脈、下大静脈、大腿静脈などに好発します。次いで動脈瘤がよくみられます。
  • 消化器病変:腸管潰瘍を起こしたとき腸管型ベーチェットといいます。やはり男性に多くみられます。腹痛、下痢、下血などの臨床症状を示します。部位は回盲部が圧倒的に多く、その他、上行結腸、横行結腸にもみられます。潰瘍は深く下掘れ、穿孔して緊急手術を必要とすることもあります。
  • 神経病変:神経症状が前面に出る病型を神経ベーチェットといいます。難治性で、もっとも予後不良です。これも男性に多いのが特徴です。ベーチェット病発症から神経症状発現まで年限がかかり、平均6.5年といわれています。片麻痺、髄膜刺激症状、小脳症状、錐体路症状など多彩です。精神症状をみることもあります。眼病変を欠くものに多いといわれています。
  • 副睾丸炎:男性患者の約1割弱にみられます。睾丸部の圧痛と腫脹を伴います。
7.この病気はどのようにして診断しますか?(診断)
主症状がすべて出現したとき、診断はそれほど難しくありませんが、ときに、診断の困難なことがあります。そのようなときは、厚生省研究班の診断基準を参考にします。症状の現れ方によって「完全型」「不全型」「疑い」と診断します。病因も病態も不明な点の多いこの病気においては、未だに症状の種類によってのみ診断づけられています。一日も早くこの病気の特異的な原因が明らかにされることが期待されています。
(表ベーチェット病の診断)
8.この病気にはどのような治療法がありますか?(治療)
この病気は全身的に血管閉塞が来やすい傾向があるので、軽度の抗凝固療法や血管拡張療法を行うと症状出現の頻度が低下することが多くみられます。口腔内アフタに対してはセファランチン、エパデール等が有効な場合があります。 この病気のもっとも重要な治療は眼病変、即ちぶどう膜炎に対しての適切な治療です。基本的にはコルヒチンを0.5・〜1.5・を経口内服します。局所的にはステロイド局所注入を行うのも有効です。コルヒチン単独で無効の場合はシクロスポリンAを5・/・/day内服します。コルヒチンを続けながらシクロスポリンを内服する場合もあります。これでも無効の場合はプレドニンの全身投与あるいはシクロスポリンの換わりにタクロリムス(0.1・/・)か、シクロフォスファマイド(50・〜100・)を内服します。しかしこれらの薬剤は造血系、腎臓、肝臓、中枢神経系等に障害をきたす副作用もしばしば出現しますので、注意深く治療していかなければなりません。
9.この病気はどういう経過をたどるのですか?(予後)
眼症状が認められない場合は、慢性的に繰り返し症状が出現するものの一般に予後は良いと思われます。眼症状のある場合は、網膜ぶどう膜炎の視力の予後は悪く、眼症状発現後2年で視力0.1以下になる率は約40%といわれています。中枢神経病変、動脈病変、腸潰瘍等の特殊型ベーチェット病の予後は普通型よりは多少良くないと思われます。
10.よく聞かれる質問とこたえ(FAQ)
Q1:日常生活で注意した方が良いことは何ですか?
A:この病気の症状が出やすい情況は過労や睡眠不足等によります。例えば引っ越し、結婚式の準備、葬式、看病、期末の残業等がありますと症状が多発し増悪します。このため可能な限り休養をとり、睡眠を十分にとることに気を配ることが必要でしょう。その他風邪にかからないようにするとか、急に身体を冷やさないようにするとか、けがをしないよう心がけることも必要です。女性の場合、生理開始前後の健康管理に心がけて下さい。
小児慢性特定疾患(膠原病)
  • アレルギー性亜敗血症(ウィスラーファンコニ(Wissler-Fanconi)症候群)
  • 急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群(MucoCutaneous Lymph-node Syndrome:MCLS)=川崎病
  • 混合性結合組織病(Mixed Connective Tissue Disease:MCTD)
  • 急性リウマチ熱
  • 若年性関節リウマチ(Juvenile Rheumatoid Arthritis:JRA)=若年性特発性関節炎(Juvenile Idiopathic Arthritis:JIA)
  • シェーグレン症候群(Sjogren syndrome)
  • 全身型若年性特発性関節炎(全身型JRA、Still病、スティル病)
  • スチーブンス・ジョンソン症候群(Stevens-Jhonson Syndrome:SJS)
  • 播種性好酸球性膠原病(Disseminated eosinophilic collagen disease:DECD)
  • 小児急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群(MucoCutaneous Lymph-node Syndrome:MCLS)
  • 慢性関節リウマチ(Rheumatoid Arthritis:RA)
  • リウマチ性心炎(Rheumatic Carditis)
  • リウマチ性心疾患

私が普段飲んでいる(使用している)お薬

現在使用中薬

プレドニン(プレゾロニン)(副腎皮質ホルモン剤)

プレドニン(プレゾロニン)の画像



ブレディニン(ミゾリビン50mg)(免疫抑制剤)

ブレディニン(ミゾリビン50mg)の画像

ロカルトロール(ビタミンD)

ロカルトロールの画像



マーロックス(胃酸を抑える胃薬)

マーロックスの画像



パリエット錠10mg ラベプラゾールナトリウム

パリエット錠10mg ラベプラゾールナトリウムの画像

フォサマック5(5mg錠)

ワーファリン

ワーファリンの画像

ボルタレン(痛み・発熱止め)

ここ1年間に使用したことのある薬

ラキソベロン(下剤)

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フェロ・グラデュメット(鉄剤)

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タベジール

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ムコダイン錠250mg

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レスプレン錠20mg

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ダーゼン5mg錠

ダーゼン5mg錠の画像



ジスロマック錠250mg

含嗽用ハチアズレ

自分史

私が誕生してから子供時代、青春期、発病、そして現在(いま)をおおざっぱに振り返ってみました。自分の思いをそのまま綴ったので、不適切なコトモあるかもしれませんが、どうぞお暇な方は読んでみて下さい。そして、HIROさんという人を想像してくだされば・・と思います。

はじめに

あまり文を書くのは得意ではないのですが、生まれからこれまでを振り返ってみようか・・と思いここに書いてみようと思いました。

誕生

19**年4月14日日曜日に旭川市内に長女として誕生。身長*p、体重*s、まっ白な顔の赤ん坊だったそうです。子供の頃の親の職業は、農家兼牛屋(牧場)だった記憶があります。

子供の頃から、おしゃべりで人なつこく、誰にでも話しかけては、いいことも悪いことも何でもしゃべるため、親に度々怒られると言う困ったちゃんでした。(^^;親にとってはバツの悪いこともしゃべっちゃうので、その場に親が同席していると大変!横目で親をみると、「何しゃべってんの!」と目で圧力をかけられてしまい、急にしゃべらなくなったり・・・(苦笑)見えないところで、つねられて怒られたこともありました。(お母さん、これ見ていたらごめんなさい!)

近所には女の子があまりいなくて、いつも近所の男の子や近所のお兄さん、お姉さん達と遊んでいました。缶けり、かくれんぼ、色つき鬼、十字架、ドッチボールとか。。。

幼稚園は、近くの市立幼稚園へ行きました。私は、さくら組で女の先生でした。幼稚園の通園は、民間バスを利用していました。幼稚園では、冬になると、マイナス24度になると、幼稚園がお休みという決まり?があったのですが、通園している間、何度か家族中で朝寝坊をしてあわててバスに乗って幼稚園へ行ったが、幼稚園が休み・・・。なんてハプニングもありました。これは、HIROのもう一つのHPの方でいきさつを公開していますので、そちらをご覧下さればわかると思います。

幼稚園では、かなり活発な子で、学芸会ではいつも何か目立つようなことをしていました。「ねずみの嫁入り」という劇をやったとき、私はナレーターをしたのですが、本番で、自分の言うセリフが吹っ飛んでしまったことがありました。袖では、先生が、出てきて教えようか・・・どうしよう・・とウロウロおろおろしていたのを記憶しています。当の私自身も、すっかり頭の中は、まっ白で、「どうしよう〜忘れちゃった」と子供ながらに必死に思い出そうとしていました。そのうち、「あっ!」と思い出し、そのままセリフを言ったのですが、「あっ!」という声がマイクに入り、父兄達にクスクス・・・と笑われてしまいました。きっと親は、とっても恥ずかしい思いだったに違い有りません。

その幼稚園は、去年廃園になり、今は跡形もなくなりましたが私にはたくさんの想い出の残る幼稚園時代でした。

発病

私が発病したのは、昭和57年2月頃だったと思います。中学一年のスキー研修を終えてから熱を出し始め関節痛だったので、冬だったし、風邪と筋肉痛が重なっているのだろう・・・くらいに考えていました。ところが、なかなか熱も下がらず、毎日38度くらいの熱を出しながら学校へ通っていました。たまたま母が病気で入院していたし、滅多に風邪も引かないし、学校も休んだことがなかったので熱を出していても学校へ行っていたのです。まさか自分が病気になっているとは夢にも思いませんでした。何週間も熱が続いていたので、入院していた母も心配になり病院へ行くように言われてやっと病院へ行きました。その時は、単なる「風邪」と診断され、風邪薬ももらいました。それでも熱はいっこうに治まらず、関節もだんだん痛くなり、上靴のかかとは踏んで歩くし、階段の上り下りもままならず、再度病院へ行き、今度は採血をしてもらいました。すると!炎症反応がでていたらしく、すぐに大きな病院での検査を勧められました。その時は、すでに学校も休んでいたし、水を飲んでも吐いていたりして、体重もみるみるうちに減っていき本当に病人でした。総合病院を紹介され、翌日受診をすると、入院を勧められましたが、その日は帰ってきたのです。入院なんてしたことなかったし、不安もありました。薬を処方してもらい、まずはこれを飲んで様子を見ましょう・・と言うことでしたが、翌日、忘れもしません。4月27日。再度高熱を出してしまい、病院へ行くと、そのまま入院になってしまいました。

初めての入院。初めての点滴。

薬を飲むのさえ大嫌いな私でしたが、あまりに体が痛くてだるくて、もう〜どうでもしてください。状態だったので、点滴も痛いな・・と思いつつも我慢できました。私が入った病棟は小児科。部屋は6人部屋の真ん中でした。入院してくる子供が珍しいのか、周りのベットの子は、じろじろ私を見ていました。でも、こっちはとにかくだるくて、ぼーとしてベットで寝ていました。しばらくは検査の連日。点滴も24時間。そして私についた病名は、「若年性慢性関節リウマチ」でした。しばらく入院が必要となり、院内学級という所へも通うことになりました。院内学級には、私のように長期で入院する子供たちが勉強が遅れないように・・と院内学級という部屋で勉強をする場所です。私は中学生だったので、中学生の部屋へ入りました。中学生は、私も含め4人くらいだったと思います。それぞれの授業のすすみ具合が違ったので、ほとんど家庭学習のような感じで、一人一人が自分で勉強をして、わからない箇所があれば、先生に聞く・・そういうスタイルでした。

当時の見た目としての症状は、関節痛、高熱、倦怠感、体重減少、蝶紅斑、日光過敏症などありました。

子供の頃

小学生時代の思い出は・・・入学式の写真って普通はみなさん写真館でランドセルをしょって・・だと思うのですが、何故か私の時は、写真館で撮した写真ではなくデパートの中で出張できていた写真館の人が撮した感じ・・・という写真しかありません。(>_<)私の入学式の洋服は、母方の叔母の手作りです。赤いサテン生地で作ったセーラタイプのワンピースと紺色の生地で作った同じくセーラータイプのワンピースの2種類。入学式当日は、赤い洋服で行きました。私は、1年4組。担任は女の先生。一学年4クラスありました。出席番号で席順が決まっていたので、私は一番前でした。小学生の頃の私は、とっても活発な子だったようで・・近所の男の子を泣かすこともあったり・・とかなりおてんばだったようです。(^^;もちろん、目立ちがり屋でもあったみたいで、参観日の音楽の時間に楽器を使って演奏・・・なんて言うと、私は「は〜〜い!」と手をあげて、なんと!男の子ですらあまりしない大太鼓を選び、みんなの前で叩いたりもしました。(^^;;;その時のことを母は、「誰も手をあげない大太鼓に手をあげて、あの子は本当にたたけるのだろうか?周りの人も「あら、女の子だよ、あの子××さん所の子だよ。」と言っていたから間違ったら恥ずかしいし・・・どうなるんだろう?」と心配だったと言っていたのを思い出します。(苦笑)意外と、度胸はあったみたいです。昔も今も・・・。その度胸をかわれたのか?小学2年生の時の学芸会で指揮者を任されました。最初は、ピアノを習っていたのでオルガン希望だったのですが、希望者が大勢いたので諦めてトライアングルを希望しましたが、トライアングルも希望者が沢山いて。担任の先生が突然「hiroちゃん指揮者をやりなさい。明日から放課後練習しましょう」と言われ、私は指揮者をすることになりました。目立つことが好きな私でもさすがに、指揮者ともなるとやったこともないし、大勢の前で段の上にあがりやるのかと思うと、ちょっと躊躇しました。でも、やっぱり目立ちたかったのかな?(苦笑)毎日放課後、居残りをして練習をしました。本番当日、段の上に上がった私をみて、父兄の人たちは「えっ?女の子が?」というざわめきが体育館にありましたが、そのざわめきが緊張したけれど、私にとっては優越感に浸る気分で指揮棒を振りました。終わった後の、達成感と満足感、優越感。すごく気分がよかったのを子ども心に覚えています。その後も私は、クラスの中でもわりと目立つ存在のままだったと思います。クラスで一番人気の子に初恋をしました。子どもの頃の好きな人の基準は人気者、スポーツマン、勉強が出来る。こんな感じですよね。その子は、人気者だったし、かっこよかったんです。(苦笑)もちろん、片思いで終わりましたが・・・。

中学年の頃は、授業中におしゃべりばかりしていて、よく先生に怒られて、サボリ癖もつき、チャイムが鳴ってから教室に入るという行為を何度かして先生に明らかにサボリだ!と思われて、何度目かの時には、教室に入るなり「立ってなさい!」と言われ、友達数人と1時間立たされたこともありました。自分が悪いのだけれど、立たされたことで先生が嫌いになりました。元々その先生は、何となくひいきをしているように自分では感じていたので余計にそう思ったのでしょう・・・・。ちょっとした反抗期ですね。(笑)このとき、2人目に好きな人が出来ました。この子も、やっぱりスポーツマンで勉強が出来る子。女の子に人気がありましたね。今思うと、なんでこの子が好きだったんだろう???と思うのですが・・。(^m^;

高学年では、思いっきり目立つ存在でしたね。行事の時には、カメラ屋さんが来るのだけど、知っているカメラ屋さんだったこともあり私はいつも「おじさん、撮って!」といいクラスの子達より断然に多く写真を撮ってもらっていましたね。クラスの男の子ともわりと仲良く?よく男の子達と遊んでいました。クラスの中にちょっと気になる子もいましたが、特別好きというほどでもなかったのですが、そのうち友達がそのこのことを好きになったので私は応援してみごと!両思いになりました!しばらくつき合っていたんじゃないかな??

もちろん、そんな私もまじめな所もあって、ちゃんと勉強はしていましたし、塾にもかよっていました。そろばん塾とエレクトーンを習っていました。そろばんを習い始めたキッカケが面白くて・・・近所のお姉さんに付いて、そろばん塾へ足を運んだのがきっかけ。そろばん塾の先生に「ちょっとやってみないかい?」と言われやると意外と物覚えがよかったようで(笑)先生に「上手だね、覚えがいいね」なんておだてられて、私はまんまとおだてにのり、自ら「私習います!」といいきって家に帰ってきてから母に「そろばん習うことにしたから!」と事後報告をしたのでした。

小学生の頃から本当に自分で自分のことを決めるし、自分勝手な所もあるけれど自分で決めたことは最後までやり通すという信念もあったかと思います。そして、わりと自分の思うままに人生が進んでいたように思います。今思えば、私の青春時代は、このころだったのでは?と思うこともあります。

入院

入院はこれまでに何度もしています。あれほど病院・病気とは無縁だった私ですが、今ではすっかり病院慣れ・病気慣れ・薬慣れしてしまいました。

初めての入院は、昭和57年4月27日(土)。このときは、当初3ヶ月の予定でしたが、番狂わせがあり、2年半ほどの入院してしまいました。

2回目は、59年夏。一度退院したのですが、2ヶ月ほどで体調を崩し、再入院。このときは、二度目の中学3年生だったので受験が終わるまで入院・・・となりました。高校受験は、入院中、院内学級からの受験でした。

この1回目と2回目でほぼ3年くらいの入院になってしまいました。

3度目は、高校生になってから。高校1年の冬、1ヶ月ほど入院しました。このときは、出席日数や次数が全教科足りなくて、退院してからは一日も休むことが許されない状態でしたが、なんとか休むことなく補習を受けて、なんとか2年に進級することが出来ました。

4度目は、高校2年の時。修学旅行一ヶ月くらい前だったと思います。やっぱり体調を崩して入院。修学旅行数週間前に退院したので、修学旅行は無理かな・・・と思っていたのですが、担任が家の親に説得してくれ行くことが出来ました。旅行中も、時々熱を出していましたが、解熱剤を飲みながらなんとかみんなについていくことが出来ました。

5回目は、本来の病気の方じゃなく、後遺症の方?とでもいうのでしょうか。眼科に入院です。ある日、突然、黒板の字がかすんで見えづらくなり、眼科へ。このまま放っておくと、失明します。と言われたので、幸いGWに入る時だったのでそれを利用して入院して治療することになりました。10日ほどで退院できましたが、入院中の治療はとても痛かった!

6回目は短大に入ってから。短大1年の時、また再発。このときは、1ヶ月ほど入院しました。秘書検定の検定日を目前としていたので、入院中ベットの上で参考書を開いたり問題集をやっていました。休んでいた時の授業のレポートは、教科担任に事情を説明し、少し遅れるが必ず提出します・・・といい、なんとかレポートの提出期限を延ばしてもらい単位を落とすことはありませんでした。

その後も、何度となく入退院を繰り返し、皮膚の悪化を繰り返しました。

印象深い入院エピソード
  • エピソードその1
  • 私が初めて入院した時の病名は「若年性慢性関節リウマチ」でした。それが、1年後・・・「膠原病・全身性エリテマトーデス」と変わりました。

    私が病院へ行ったとき、両親は事前に家で家庭の医学などの本で私の症状に合う病気を探していました。そして、病院で「膠原病じゃないですか?」と医者に言ったそうです。でも、その時の医者は、「違いますよ。大丈夫ですよ。」と言っていたそうです。入院後、妙に私に対して婦長が外へ出るとき、「帽子をかぶりなさい、長袖を着なさい・・・」とうるさいくらい言いました。私は、夏に長袖は嫌いだし、帽子とかかぶるのも嫌いだったので、なんでこの婦長は私にばかり言うのだろう・・・と不思議に思っていました。今思えば、もしかしたら婦長は、長年の経験から私が膠原病の疑いがあると感じ取っていたのではなかったのでしょうか?1年くらいリウマチと言われて続けてリウマチの薬を飲んでいました。アスピリンという薬とプレドニンという薬でした。リウマチにはアスピリンがよく効くそうです。ですが、私はアスピリンという薬ではあまり効果がなく、トレクチンという薬を飲んでいました。入院してから1年が経った頃、だいぶ調子もよかったし、元いた中学校の修学旅行へ行ってから退院・・とある程度の目標が出来ました。ところが、修学旅行から帰ってきてから、まもなく原因不明の熱を出し始めました。そして、何日も高熱で院内学級も休み、点滴をすることになってしまいました。毎朝、高熱を出し、夏だとういうのに、朝から毛布・布団、しまいには頭には水枕、足には湯たんぽをするという状態で、うなされていました。

    ここからは、私の中での記憶であり、病院側との記録とは違うのですが・・・・ある朝、いつものように朝から高熱のあった私は、自分の布団だけじゃ足りず部屋の子の使っていない布団も借りて布団にくるまっていました。でも、トイレへ行きたくなり、元気だったら自分で点滴を持ってトイレへ行くのですが、あのころは、歩くのもやっとだったので、看護婦さんを呼んでトイレへ行こうと思いました。ちょうど、時間は9時前後。病棟では申し送りをやっている最中です。ブザーを押して看護婦を呼びましたが、なかなか看護婦はきてくれず、しびれを切らした私は自分で点滴を持ってトイレまで行きました。

    そして・・・・・・・

    私はトイレで倒れてしまいました。(これは、当時同じ病室に入院していた子供の付き添いのお母さんが後から母にそう教えてくれたそうです「hiroちゃんは看護婦を呼んだけれど、こなかったから自分で点滴を持ってトイレへ行ったのよ。そしたら、トイレからものすごい音がして・・あわてて看護婦さんが駆けつけたのよ」と。)

    そのまま私はナースステーションに近い個室へ移され、気がついたらベットの上でした。その後、家族が駆けつけました。家族には私が個室へ移されてから連絡があったようです。移された私は体にぶつけたようなアザ後があり、真っ黒にブス色になっていたようです。

    両親は病院側に「こんなに具合が悪いなら倒れる前に、一言連絡がほしかった」と言ったそうです。

    それから個室での生活。少しづつ回復したのか、体力はめっきり落ちていましたが、なんとか物に捕まってなら歩けるようになってきました。その後、当時の主治医から「この治療をやったら絶対病気が治るよ」と言われ、私はその治療を受けました。これが、パルス療法でした。これは、1週間に3日ほど大量のステロイドを点滴から体に入れる。という治療法でした。子供だった私は、治るなら・・・とその治療を受けました。でも、副作用なのかその治療が適さないのか、点滴後、吐いて、痰が出て、ひどい時には一晩で箱テッシュの箱がなくなったほとです。とても苦しくつらい治療でした。その合間に、これも今となれば何の意味があったのだろう・・と思うことなのですが、ある日、主治医から「記念に顔の写真をとっておこう」と言われ、フォトセンターという検査室へ行って顔写真のアップを撮りました。まだ病み上がりの体で、抵抗力がなかったし、リウマチと言われていたので、何も不審に思うことなく、上半身を抜いて、顔の写真を撮りました。電球が何個もある、すぐそばでの写真撮影。ものすごく暑くて、体がだるかったことだけ覚えています。

    その夜、私の体に異変が!!

    体中に水疱が出来、それがやぶけてしまったのです。水疱といっても、水ぼうそう程度じゃなく、もっと大きな水疱が体中にびっちりと出来たのです。やぶけた所から血がでて・・・当時の様子を想像するなら、交通事故とやけどを足して2でわったような状態。とでもいったら良いでしょうか。とにかく病院始まって以来の、ひどい状態になり、一度は病院に転院を勧められたようです。「この状態になって、今どうお考えですか?病院を移られるとかお考えですか?」と。親族会議を開きましたが、ヘリを出してでも病院を移る。なんて話もあったようですが、今動かすのはリスクを伴う・・と結局、母がちょっとキツイ一言を病院側に言ったようですがそのまま病院に残る事になりました。それから、やけどに対応するような処置を行いました。部分的にしか覚えていませんが・・・私が覚えているのは、油薬(アズノールって名前の薬だったかな?)を体中に塗り、包帯やガーゼで体をおおう。そうしないと、表面に出ている血が固まってしまうので油薬を塗り、血が固まらないように、そして体を保護するという処置だったように思います。そして、皮膚があがってくるのを、ただひたすら待つ・・・・そんな感じでした。その処置は一日1回やるのですが、処置の間は病棟中の看護婦が集まるほど大事でした。なんせ乾いて体にくっついたガーゼをはがすのですから、そのガーゼをはがすと血と肉(皮膚)がベリッって感じではがれるのですから、強烈に痛いと思います。ちょっとやけどをしても、みんな痛いでしょ?それが全身に・・・と思ったら想像がつくんじゃないかな?その後、消毒のために消毒液や水をその体にかけるんです。ヒリヒリってもんじゃないですよ。ビリビリって感じで、痛いったらありゃしない。治療中、ギャーギャー病棟中に響き渡る声で、大騒ぎをしていたらしいです。そんな治療も、半年ほど続けたのかな?だいぶ皮膚があがってきて、ある日ストレッチャーで風呂場につれていかれました。そこで、ストレッチャーにのったまま、シャワーやお風呂のぬるま湯を桶で掛けられて・・・。シャワーの水圧がちょっと刺激があり痛かったけれど、我慢できないほどの痛さではなかった。それから、めきめきと回復してきました。でも、数ヶ月もベットに寝たきりだったので、すっかり筋力は落ちていて、ぜんぜん歩けません。最初は、ベットの上で、リハビリ室の先生に来てもらい、足の運動。それから、歩行器を使って、歩く訓練。同時に車椅子でリハビリ室へ行き、筋力トレーニングの開始。でも、まだまだそう簡単には歩けません。季節は、冬。私は15才。ふつうなら、中学卒業です。でも、まだまだ自分で立つ事ができないので、卒業を見送りました。幸い、中学側は、私の留年を許可してくれたのでホッとしました。でも、同級生達と一緒に卒業出来なかったのは、ちょっと寂しかったです。なんだか友達においてかれたような気分で・・・。そして、16才になったころ、ようやく私はなんとか自分で立って歩けるようになりました。もちろん、あの重傷の傷跡は顔にしっかりと残ってしまいましたが。顔をみたら、やっぱり悲しい。こんな顔じゃなかったのになぁーとか、傷だらけで素顔で外を歩けないな・・とか人に素顔なんて見せれない・・とかいろいろ。でも、整形手術なんて、それこそ病気にどう影響するかわからないので、恐くて出来ない。だったら、それであきらめるしかないよね。こんな顔だし・・と暗い顔、ブスッとした顔していたらよけい可愛くない。母親にも、「おまえは顔がこんなんなんだから、せめてニコッとしていなさい。」といわれ、そうだな・・・せめて愛嬌くらい持たないと・・・と気持ちを入れ替える事が出来ました。そして、自分にも、そう言い聞かせました。

    そして、16才の夏、やっと退院の許可がおりました。退院して私は、元の中学校の新3年1組の生徒として3年生をやり直す事に。このクラスは、以前私が在籍していたクラスです。幸い、部活の知っている後輩が何人がいたし、担任もすごくよくしてくれたので仲間はずれにもならず、すぐに仲間が出来ました。でも、1ヶ月くらい学校へ通うと、またすぐ再発。せっかくふつうの学校生活が送れると思っていたのに、また入院。すごく悔しかったし、悲しかった。今度も、そう簡単には退院は出来ないだろう・・くらいの覚悟でした。やっぱり2年半のブランクは大きかったようです。体力がついていかなかった。今度は、中学卒業まで入院していました。高校受験は、入院しながら、の受験でした。冬になってから、長期外泊という形で体を慣らすために、家から院内学級へ通い体力作りをしながら、受験勉強をして、受験。私は、私立一本で受けました。公立だと出席日数にとてもうるさいと聞いていて、その点、私立は公立よりは少しは融通が利くらしい・・と担任より聞いたので、私は私立を受験しました。合格発表日は、ラジオで院内学級の先生方が聞いていて、もちろん私も聞いていました。たぶん専願なら受かるでしょう・・と思いながらも、内心どきどき・・・。もし、落ちたら、みんなの手前カッコ悪いし、中学浪人になっちゃう・・との思いと、これ以上、同級生達に遅れを取りたくない。そんな気持ちで一杯でした。そしてそんな気持ちも吹き飛ばかのように、ろくに勉強出来なかったけれど、なんとか合格。一安心した瞬間です。やっと晴れて高校生だ!そして、受かったら退院と主治医との約束通り、私は、3月に退院しました。高校生になったら、友達が出来るかな・・・。たぶん勉強はついてくのがやっとだろうな・・。そんな期待と不安で入学式を迎えました。なお、学生時代の話は、「青春時代」を読んでもらえれば・・・と思います。

  • エピソードその2
  • 晴れて高校生になった私ですが、在学中も度々入院をしました。高校1年生の時の再発は、1ヶ月ほど。2年の時は、2週間ほど。そして、3年生の時。この大事な3年の時に私は10日ほど入院しました。これは、膠原病で入院とはちょっと違い、眼科へ入院。GW間近にした頃、目の異常に気づきました。どうも黒板の字が、霧がかかったように霞む・・・と。眼科で診察をすると、眼科医に「このまま放っておくと失明するかも。」と脅されました。(^^;幸い、GWに入る頃だったので、GWも含めれば、あまり学校を休まずに済むとGW中に入院することに。治療をすれば、良くなります。と断言されたし、私もこのまま目が見えなくなっては困ると思い入院を決意しました。治療は、簡単。霞んでいる方の目に注射をするのです。点眼で麻酔をして、白目に針を刺す。こんな治療でした。どちらの目にしたのかは、もうずいぶん昔なので忘れてしまいましたが、痛かったことはよく覚えています。いくら点眼麻酔をしたといっても、目を開いたまま注射針が目の前にくると自然と恐怖から目を閉じようとしてしまいます。しかも、眼科医には「黒目動かさないでね。刺さったら大変だよ!」といわれるとよけいにプレッシャーを感じて、目を閉じてしまいます。この治療は1週間毎日やりましたが、目を閉じないように機械で固定され、目を閉じれないようにして注射をされました。目が乾燥するので目を閉じたいと思っても閉じれず、いやだったのを覚えています。注射も痛くて、注射をした後は、痛みでしばらく目を開けれない状態でした。今考えると、よくあんな痛いことやったよねぇ〜と我ながら関心します。目が見えなくなっては困る!と必死だったのでしょうねぇ。(苦笑)白目の血管を外して注射なのである程度、同じような場所に注射。毎度同じ場所に注射をされると、感覚っていうのかしら?痛みが増してきてね・・・・。治療の終わり頃は、特に痛かったです。しかも!これで治療は終わりです。って最後の日に、なんと!先生は、目の血管に針を刺してしまいました。それが治療上悪いのかどうかは、今となっては私にはわかりませんが、そのおかげで、白目がなくなるほどの血の色で真っ赤になり、次の日から学校へ行く私は、ちょっとこの目だと、格好悪いなぁ〜っていうか、みんなが気持ち悪がるだろうなぁ〜・・・と思いました。移るわけでもないけれど、ちょっと自分でも気持ち悪い目って印象だったから・・ね。案の定、次の日学校へ行くと、友達に「うわっ!なに?その目。大丈夫なの?」っていわれたもの。。。そんな出来事がありました。(笑)

  • エピソードその3
  • あれは、ちょうど26才頃だったと思う。家でのんびりしつつも、冬は郵便局へ年賀のバイトへ行ったりとして、職にはついていないけれど、そこそこバイトもしたり、月に一度のペースで学生時代の友達と遊んだり・・とそれなりに?楽しい生活だったはず・・・。春頃、体調を崩し、入院。膠原病は季節の変わり目に体調を崩す事があるのでそんなに気にしなかった。でも、いつも同じクスリで同じ治療。もっと画期的な治療はないものかと主治医は思ったのか、ある日、「免疫抑制剤を使おう」と言った。使った薬は、エンドキサン。これはよく白血病の治療にも使う薬だ。錠剤で飲んでいたのだが、元々皮膚症状が出てきていたので、皮膚の状態もあまり良くはなかったのだが、この薬を飲み出してめきめきと具合が悪くなってしまいました。皮膚が化膿している部分もあり、アズノールを手の指や足の指、顔に・・と塗り包帯でぐるぐる巻きにしていた。朝、からだがだるい・・と思いながらも、多種類の薬を飲んでいたので、朝ご飯を食べて、体重を計って・・・といつも通りの行動をしていた。でも、からだがだるいので、その後、ベットで横になって安静にしていたのだ。だが、そのまま皮膚が猛烈に悪化しだしたのか、お昼には、からだがだるくて起きれないし、口の中がただれて食事も取れない状態。そうなると、進行は早い。数時間後には、背中の皮膚が悪化して、ただれてきて、パジャマに皮膚がこびりついてしまう。こうなったら、最終手段。パジャマは、ハサミで切り裂かれ、すぐに消毒、アズノールを体中に塗り、動けないので、尿道には管を通されてしまった。一刻を争う事態だったので、麻酔もなしに、尿管を通されたときは、も〜痛くて痛くて・・・。あっという間に、重症患者。朝まで自分で歩いてお膳を下げたりしていたのに・・。原因は、はっきり覚えていないが、きっと薬が合わなかったのでは?と思われる。それからまた長い闘病生活の始まり。すぐにステロイド増量。毎日のガーゼ交換。私は毎日、辛く痛い治療をした。1、2ヶ月経った頃だろうか、時はGWに入っていた。友達が2人、お見舞いにきてくれた。私は、いつもの私のつもりで居たが、友達の目にはどう見えたのだろう?それでも私は友達に会えるのが嬉しかった。その後、また容態を悪くして、母が病院に24時間付きっきりの看護にあたる。なんせ吐くし、動けないし・・・だったので、母の姉妹も見舞いにきてくれたり、一緒に付き添いをしてくれたりもした。私は、目に見えてよくならない自分にいらだちながらも、皮膚があがってくるのをただひたすら待った。時が経つのを待つしか正直治療法がなかったのだ。5月半ば、6月だっただろうか。ようやくベットの上でならなんとか寝返りもうてるようになった。それから母も日中はきてくれたが、ほぼ一人での入院生活。まだ自分でトイレにも行けないので、看護婦の世話になっていた頃だ。ある看護婦から、こんな言葉の暴力をうけた。薬の副作用で、私は太っていた。しかも、15才を過ぎているのに、小児科に入院していた私は、看護婦にとって扱いにくい存在だったのかもしれない。ある日、ベットの上で清拭をしてもらっていたとき、その看護婦は言った。「いや〜すごいね、このおなか。ぷよぷよだね。波うっているよ。」と笑いながら言った。それだけでも気にしている事をズバリとしかも、笑いながら言われ、傷ついていたのに、その看護婦は、「少し食べるの考えたらどうなの」と今度はキツイ口調で。まるで私が食べてばかり居るような言い方。その言葉には、とても傷ついた。以前にもその看護婦には、時々、嫌みを言われていた。でもその看護婦は、とっても利口で、家族や面会者などが居るときは、絶対、そんな態度は取らない。私と二人っきりの時に、必ず何か言うのだ。まるで、いじめだ。いや、いじめられていたんだと思う。私は、自分では動けないので、どうしても看護婦の世話にはならなければならない。でも、その看護婦と二人っきりになるのがとてもいやだった。看護婦にその言葉を言われてから、私は無言の抵抗に入った。方法は簡単。食事を取らないことだ。その日の昼から、食事を取らなかった。自分で食器を下げれないので、看護婦が下げに来る。そうすれと、どれだけ食べたかふたを開けてみるのだが、いっさい手をつけていない様子に、あれ?と思ったみたい。そして、夕食も取らない私をみて、母がへんだ。と気づき、交代した看護婦が見に来ても食事を取っていない私を不振に思い出した。それが次の日も続けば、絶対何かあった。とみんなが思ったようだ。母は、私に問いただす。私は、最初は、口を開かなかったが、食べないと元気にならない。と母に言われて、思わず涙してしまい、泣きながら、昨日の出来事を話した。その話は、すぐにその日担当していた看護婦に伝わり、主治医に伝わり、しいては、婦長にも知られ、総婦長の耳にまで届いた。すぐに、会議が開かれ、それ以後、その言葉の暴力をふるった看護婦は私の担当からははずれた。もちろん、主治医、婦長、総婦長まで、部屋に謝罪しにきていた。

    その看護婦は、今でも現役でいるようです。私に会うと、にこっとほほえみ、昔の事なんてぜんぜん覚えてないかのように話しかけます。私も表面上はふつうに話はするけれど、絶対この看護婦だけには許せない人です。昔は、自分が動けない患者の立場だったので、なんとなく立場が弱いという思いで黙っていたけれど、今度何か言われたら、絶対黙っていないぞ!と心に誓っています。みかけは、白衣をきて、それこそ白衣の天使ってイメージだけれど実際は、白衣をきた、天使を装った悪魔だと思っています。(ちょっと大袈裟かな?)その看護婦だけは、どうしても好きになれません。そんないや〜〜な思いをした入院でした。

思春期の頃成人して

中学生になり制服を着るようになりちょっぴり大人気分の私。毎日、友達と自転車通学でした。部活動は文系の「合唱部」に所属。この部活動に入るにあたり、親の反対があったのですが仲の良かった友達みんな入るのでどうしても入りたかったのです。でも親は「お前は勉強と両立出来ないから・・」と言われていたのですが、「ゼッタイちゃんと頑張って両立させるから・・」と頼み込んでやっと許可が下りました。合唱部では、私はアルト担当。自分ではソプラノの方がメロディなので覚えやすいし・・と思っていたのだけど、私の声はアルト向きだそうです。それでも、毎日放課後練習をして、土曜日にも練習。ジャージを着て、校外一周なんて走らされたり・・・なんで合唱部で走るんだ?と思ったけれど、発声練習とかするのに体力が必要だとか・・・。まぁ、走るのは結構サボっていましたが・・。(^^;;まぁ、中学生ともなれば、少し大人の仲間入りをしたくて、カッコつけたりするものですよね。私もそうでした。部活をサボって放課後居残りをして男の子や女の子達の仲間と遊んで帰るのが遅くなったり・・・時には男の子の自転車の後ろに乗り隣町までみんなで遊びに行ったり・・・。もちろん、一番カッコイイ子の後ろに乗せてもらうという要領もよかったです。(爆笑)好きな子もいましたし、つき合ってもいました。数ヶ月で別れたけれど・・・ね。でもたぶん、この頃から病魔は私の体を少しずつですがむしばんでいたのでしょう・・・。1年の終わり頃には、スキー研修後、熱をだして毎日熱を出しながら学校へ行ってました。

2年生になり、私の熱は相変わらずあり、こんなに長期で熱があるのはおかしい・・と親に言われ病院へ診察に行きました。母はこの当時、乳ガンで入院していたので、祖母に付き添われていきました。病院では、カゼと診断されてしばらくは様子見状態でしたが、最後また高熱が出て、今度は吐き気もあったのでまた病院へ行き採血をすると、リウマチ反応がでたので、大きな病院を紹介されました。市立病院へ行くと、すぐに入院と言われ、私は初めての入院経験をすることに。最初は、3ヶ月くらい・・・と言われたので、まぁ3ヶ月くらいならいいか・・と軽い気持ちで入院しましたが、なにせ体調が悪かったので、なすがまま状態で、初めての点滴をしました。点滴をしたまま小児科へ連れて行かれその日のうちにそのまま入院。世間ではGWが近かったので、同じ部屋の子達はみんな長期外泊をしてしまい数日私は6人部屋の広い部屋に一人で過ごしました。入院して、私は「若年性慢性関節リウマチ」と診断されました。それから私の入院生活が始まりました。徐々に同じ部屋の人たちとも仲良くなり、私は長期になりそうだ・・ということで院内学級へ入ることになりました。院内学級では、私と同じように長期入院している子達が数名いました。私より長く入院している人、入ったり出たりを繰り返している子、様々でした。病気も様々で、気管支炎、小児喘息、糖尿病、心臓病、リウマチ、白血病、ネフローゼ症候群等色々な病気の子がいました。もちろん、内科患者ばかりではなく、外科病棟に入院していた人、神経科に入院していた子、泌尿器科に入院していた子などもいました。私が入った中学生の部では、私を含め中学生が5名ほどいました。それぞれが、自分の学校の教科書を使い、自己学習的に自分で勉強をして、解らないカ所は付いている先生に教わる。そんなやり方でした。そんな毎日で中学2年生の時期はあっという間に過ぎました。最初の頃は、物珍しくクラスメイトなどもお見舞いに訪れましたが、半年も経つとだんだんとクラスメイトに忘れられてしまうのがちょっと寂しかったです。

中学3年になり、だんだんと症状も安定してきて私の退院の話がでるようになりました。予定では、自分の学校の修学旅行と院内学級の遠足が終わってから退院。の予定だったのですが、その後私の体調が悪くなり熱を出してしまったのです。毎日高熱を出し、院内学級も休んでいました。ある日、朝から高熱を出していた私は、点滴をしながら、トイレに行きました。普通なら、あれだけの高熱があれば、看護婦が付いていくのですが、ちょうど朝の9時で申し送りの最中。何度呼び出しをしても、看護婦がこなかったので、私は自分で点滴を持ちトイレへ行きました。そして・・・・・・・・私は熱のためにトイレで倒れてしまったのです。そのことは、後になると、看護婦さん達は口を揃えて、詰め所(ナースステーション)の前で看護婦さんの前で私が倒れた・・とか言っていますが、同じ病室に付き添っていたお母さんの話によると私は何度も看護婦さんを呼んでもこないので自分で点滴を持ちトイレへ行き、バタン!とすごい音がして、hiroちゃんが倒れていた。と話しています。きっとこのお母さんの話の方が真実でしょう・・・・。病院側ではそのことを隠したのです。私は、このときから少し病院が信じられなくなりました。私は、すぐに詰め所に近い個室に部屋を移されてしまいました。その後も、だんだんと体調が悪くなり、私はパルス療法を試みたのです。主治医は、「これをすれば絶対治るからやろう!」と言ったので、子ども心に早く退院したい・・・治りたい。との気持ちでその治療をうけることにしました。パルス療法をはじめると、だんだんと体調が悪くなり、ひどいときには毎日タンがからんで一晩でティッシュの箱を使ってしまうことも度々・・・。結局、この治療は私には効果はありませんでした。かえってこの治療のおかげで私の体力が落ちて、容態が悪くなりました。ある検査の次の日、私は全身火ぶくれ状態になってしまったのです。交通事故とやけどを+2で割ったような状態をイメージしてください。見るも無惨な状態でしょ?その時は、自分での記憶はあまり覚えていなく、覚えていることと言えば、だんだんと舌の感覚が悪くなり、ヤクルトを飲んでも苦い、そのうちしゃべれなくなり、50音のボードを使って人との会話をしていた寝たきり状態しか記憶にありません。本当に苦しくて、辛くて、もう死んでもイイ・・とまで思ったくらいで、親にも主治医にももう死んでもいいから早く楽にして。と泣いていっていたそうです。わりと我慢強い私がそこまでいうということは、相当辛かったのだと思います。やけどのように皮膚がひぶくれになり、私は体中にあぶら薬を塗られガーゼで血がかたまらないように保護され、そのガーゼ交換を一日1回やっていました。そのガーゼ交換が、すごく痛いのです。何故・・ってカーゼを交換した直後はいいんです。その後、高熱が出ている私の皮膚は熱によりガーゼが皮膚にくっついてしまうから、ガーゼ交換をする時にはそのガーゼは乾燥して乾いているので、それをはがすと、私の皮膚もガーゼと一緒にはがれるのです。想像してみて!生きている皮膚がはぎ取られるのを・・・。毎回、そのガーゼ交換の時は、病棟の看護婦が10人近く集まり、先生も2〜3人、手があいている人はみんな私の部屋へきて1時間かかりでの治療でした。そのたびに私は病棟中に響き渡る声で叫んでいたそうです。「きゃ〜!」じゃなくて「ぎゃぁ〜〜〜!!!」「い゛だい゛〜〜〜〜〜〜〜!」って感じだったそうです。そんな私でも口では死にたい・・とか言っていても、実際はまだまだ死にたくないという重いが強かったのでしょう・・・。半年後、私は車椅子でようやく病室を出ることが出来る程に回復しました。まだ院内学級には行けませんでしたが、たまになら病室の外に出ることが出来るようになりました。そしてリハビリをして歩行器を使い歩く練習。結局、3月になっても自力で歩くことは困難だったため、まだ入院が必要と判断されたので中学は留年という形で席を残してもらうことにしました。年度がかわって4月になり私は、また中学3年をやり直し。・・と言っても、まだやっと歩けるようになったので入院はしていましたけどね・・・。でも、若いからかな?回復は早かったですよ。その夏には、晴れて退院!退院後は、一つ下の子たちと机を並べて、元の学校へ戻りました。幸い、合唱部の後輩とかもいたので、すぐにクラスの子達には馴染めたし、いじめられもしませんでしたね。でも、せっかくこれから・・・と言うときに、私はまた熱を出して入院。その後は、入院しながら、高校受験をしました。

こう考えると、私の中学生時代は波瀾万丈な日々だったのかもしれません。私の人生を変えるような出来事ばかりでした・・。でも、悔いはありません。と言えばウソになるかもしれないけれど、自分ではその時を一生懸命にやったよね・・と今では誉めてあげたい気分。

青春時代

ようやく友達より1年遅れで高校生になりました。高校は今後の病気のことも考えて私立高校にしました。なんでも、公立よりは私立の方が欠席日数だったか時間数だかが大目にみてもらえる・・との話を聞き、私立にしました。私は退院するときに、医者から「親が学校への通学には送り迎えをして下さい。」と言われていたので家から近く、共学で制服の可愛い××高校へ行くことにしたのです。同じように入院していた人でその高校へ入っている人がいてその人から学校の話を少し聞いていたし、その人が着ていた制服がとっても可愛くかっこよくみえたのでその高校を選んだ。ということもありますが・・・・制服は気に入っていました。でも、私の学校は仏教系の学校で、朝は仏教の音楽(南無阿弥陀)で始まり、終わりも同じ。そして、週に一度、全校生徒が体育館に集まり、「仏参」というのがありました。まぁ、早い話全校集会みたいなものですが・・・。私は初めて入学したとき、入学祝いと書かれた箱を見て、なんだろう??とワクワクしましたが、開けてびっくり!数珠が入っていたのです。そんな学校でした。(苦笑)学校では、ごくごく普通に過ごしていたつもりです。時々、入院したり、病院へ行ったりもしてましたが・・・。後、体育の授業だけは、ジャージを着て見学が多かったです。あと、学校の行事で外に出るような行事はほとんどパスしていました。それでも、入院は毎年していたけれど、なんとか留年もせず卒業が出来ました。一年生の時だけ、1ヶ月も入院で学校を休んでしまったので、時数がすべてひっかかってしまい各科目全教科、レポート提出をさせられましたが、どの先生も私が病気で休んでいたのを知っていたので、大目にみてくれたのでしょう・・・。ちゃんと2年生に進級できました。修学旅行では、1週間前くらいまで入院していて、退院後すぐに修学旅行だったので担任の先生は心配していたのですが、私は意外とケロッとしていて、修学旅行先でも、熱を出して、解熱剤を飲んでから先生に「いや〜実は今日熱があったから薬飲んできたばかり」なんて平気で言っていました。先生は、さぞびっくりしたことでしょう。「旅行中は私が責任持って預かります!」みたいなことをうちの親に言っていたから、何かあったら大変だものね。でも、熱は知恵熱みたいな感じですぐに治まったので特に問題はありませんでした。7泊8日の東京・奈良・京都の旅はあっという間に終わりました。東京では、違うクラスなんですが仲の良かった友達が、盲腸になって東京の病院に緊急入院!なんてハプニングもありましたが、楽しい思い出です。3年生になり、卒業間近・・になってくると、進路が気になります。私は、体のこともありまだ就職してやっていく自信もなかったし、進学jコースに籍をおいていたので、そのまま進学。ただ、専門学校へ行こうか、大学へ行こうか・・と悩みました。自分の将来を考えると専門学校の方はいいような気もしましたが、専門学校は補習・補習の毎日で結構たいへん・・・と聞き、それだと体が持たないな・・と思った私は大学へ進学することにしました。自分的には、福祉関係の学校へ行きたかったのですが、どこにどんな大学があるかよくわからず、紋別にある福祉大学なんてどうだろう・・と思っていたのですが、親は反対。そんな遠くへ行ってもし何かあったらすぐに駆けつけれない。という理由で。担任もその意見には同意で、私は他の大学を考えました。わりと成績がよかったので、私の評定だと、学校で推薦枠のある学校は何処でも推薦出来るぞ。と担任は言ってくれたのですが、病気のこともあったので私は地元の短大へ進むことにしました。学科は、生活科・秘書専攻コースです。推薦入学の試験の時、面接官に「どうしてあなたほどの成績の人がうちを受験するんですか?あなたの成績なら何処でもいけたでしょう?」と言われたのを覚えています。それで一人せいぜい10分くらいの面接が、私の時だけ30分近く面接をしていて、一緒に受験をした友達に「遅い!何話していたの?長かったよ!」と言われたことがありました。晴れて私はその短大へ入学しました。短大時代は、高校時代に出来なかった、適度なサボリもして遅い青春を過ごしました。あいにく?運命の出会いには巡り会いませんでしたが・・。(苦笑)

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